■拳銃稼業~西海岸修行編

中井クニヒコ
(なかい・くにひこ)


1966年大阪府生まれ。高校卒業後、陸上自衛隊中部方面隊第三師団入隊、レインジャー隊員陸士長で'90年除隊、その後米国に渡る。在米12年、射撃・銃器インストラクター。米国法人(株)デザート・シューティング・ツアー代表取締役。



第1回:日本脱出…南無八幡大菩薩
第2回:夢を紡ぎ出すマシーン
第3回:ストリート・ファイトの一夜
第4回:さらば、ロサンジェルス!その1
第5回:さらば、ロサンジェルス!その2
第6回:オーシャン・ハイウエイ
第7回:ビーチ・バレー三国同盟
第8回:沙漠の星空の下で
第9回: マシン・トラブル
第10回: アリゾナの夕焼け
第11回: 墓標の町にて
第12回:真昼の決闘!?
第13回:さらばアリゾナ
第14回:キャラバン・ターミナル
第15回:コンボイ・スピリット その1
第16回:コンボイ・スピリット その2
第17回:砂漠の不夜城
第18回:ギャンブルへのプロローグ
第19回:ラス・ベガス症候群
第20回:ギャンブラーとして
第21回:自由の中の葛藤
第22回:アメリカン・ドリーム
第23回:長距離バス
第24回:霧の街サンフランシスコ その1

■更新予定日:毎週木曜日

第25回:霧の街サンフランシスコ その2   

更新日2002/08/29 


朝から出ていた濃い霧は、ケーブルカーでノブ・ヒルの頂上付近に差しかかるあたりからは消え始め、あの眩しいスカイブルーの西海岸日和に、空は変化していた。

ケーブルカーから見下ろす太平洋と世界一美しい橋、ゴールデンゲート・ブリッジと旧監獄の島、アルカトラズ島が一望できた。それらの風景の美しさは、今まで旅行した米国の街には見られなかった自然と建造物とがみごとに調和するようなハーモニーを奏でていた。

ケーブルカーの終点は、半島の北にある、フィッシャーマンズ・ワーフである。古くから漁港として栄えていた地区で、今は観光地化しているが、ピアと呼ばれる波止場には、新鮮な魚介類が露天で売られていて、観光客にも気楽に試食することができるのだ。

私も久々に、茹でたワタリ蟹を1匹注文して、カモメの声を聞きながら防波堤の上で座って食べた。こちらでは、バターやケチャップで食するのであるが、あまりの美味しさに、思わずポン酢が欲しくなった。

海には、野生のアザラシが日向ぼっこをしている。早朝出発したのであろうサケ釣漁船も、ゴールデンゲートをくぐって外洋から次々と帰ってきていた。それは実に平和でのどかな風景だったので、この街に心から住みたいという気持ちが湧いてきた。早く仕事を見つけなければ…。いつまでも観光気分でいるわけにはいかない。所持金はあと500ドルもないのだから…。

眩しい太陽に目を細めながら、今後の仕事探しに思考を巡らせた。気持ちは焦るが、あまりにものどかなフィッシャーマンズ・ワーフで昼寝を2時間くらい決め込んでしまった私は、再びケーブルカーでダウンタウンへ戻った。戻る途中に半島の東側にある近代的な高層ビルに目を奪われた。昨日ベイブリッジを渡る時に見えたビル郡である。

ゴールド・ラッシュ以来栄えた金融街であろうか? 金融関係のビルが非常に多い。もちろん、そんなオフィス仕事は自分にはできないし、向いていないことは百も承知である。旅行中に考えた結果、これといった特技がない23歳の自分の今一番の目標は、レストランの寿司シェフになるために、皿洗いからスタートすることであった。また、チャンスがあれば貿易関係の仕事もやってみたいと思った。

漠然とではあるが、仕事を探してアメリカで住むための心の準備もできてきた。当初のように、アメリカ横断オートバイ旅行と就職という2本立ての計画は、アリゾナの砂漠で断念して以来、考えていなかったのだ。

夕方、イースタンホテルに帰ると、部屋に閉じこもり、辞書片手に四苦八苦しながら3通程、英語の履歴書を作成した。万が一、英語でインタビュー(面接)を受けた時のシミュレーションも一人で繰り返し行った。

人間追い詰められると、かなり準備もはかどるものだと実感した。窓から外を覗くと、いつの間にかまた霧が出ていた。遠くからジャズバンドの生演奏の音も聞こえてきた。

翌朝、李おばさんにジャパンセンター(日本町)の場所を聞き、リュックの一番下に眠っていた、クシャクシャになった背広の皺を伸ばしながら、仕事探しに向かった。LAの時のように、きっと求人がたくさんあるに違いない。それがダメならレストラン一軒一軒を廻り、雇用の機会をつかむくらいの心構えで出陣したのだ。

ホテルからジャパンセンターまでは、バスで10分位のところである。LAのリトルトーキョーよりも規模は小さいが、日本料理屋や日系のスーパーが軒を並べている。久々の日本語の看板に感動しつつ、まずスーパーの入り口に貼ってある求人欄に目を通してみた。

やはり、スシ屋、レストランの求人が数件あったので、心は騒いだ。LAで試みた時は、まだ日本からきたばかりで戸惑ったのだが、今まで2ヶ月間といえども、多少アメリカ社会で揉まれた経験は私に自信を持たせた。電話での英語の対応も多少は自信がついていた。

目ぼしい募集広告を5件ほどメモして、25セント硬貨を公衆電話に入れた。そして、なんと最終的に3件の面接を獲得したのだった。しかも、3件ともスシ屋で、キッチンヘルパーの募集があるそうだ。しかし、なぜかどこも面接の時間を、明日の午後3時頃に指定してきたので、また明日ジャパンセンターへ出直さなければならなくなった。

いよいよ仕事とアメリカ永住への第一歩を踏み出した私の足取りは、非常に軽かった。頭の中にある願望やイメージは、努力次第で現実になるというマーフィー理論は聞いたことがある。そして自分の可能性は、白紙の新しい土地でどこまでチャレンジできるのだろう? すでに半分以上は、米国永住した気分になっていたのだ。

明日の面接まで、時間を持て余したので、昨日の市内観光の続きをやることにした。インターネットなどがまだない90年代初頭は、ガイドブックや現地で情報を集めるのが普通だった。米国でも観光地には観光局という場所があり、そこで色々な街の情報や地図、割引クーポンなどが手に入ったのだ。

この際、少しでもシスコ通になっておきたい気がしたのだ。色々なパンフレットを観光局で集めているうちに、日本語で「チャレンジ! 実弾射撃ツアー」と書かれたパンフを発見した。

そういえば、米国では射撃がスポーツとして楽しめると聞いたことがある。明日の面接の前に、これから米国での生活を始める上で一度体験しておくのもいいかも…、と早速予約の電話を入れてみることにした。所持金は残り少ないが、これから仕事を始めればなんとかなるだろうという気分だった。

 

 

第26回:運命の実弾射撃ツアー