第10回: 半分のオレンジ(前編)
更新日2002/06/27
アミーガ・データ
HN:Reiko
1965年、大阪生まれ。
1993年よりスペイン生活、現在10年目。
マドリード在住。
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きっと誰にでも経験があるのではないだろうか。小学生の頃、友人たちと下校途中の他愛無いおしゃべり。「ね、何歳で結婚する?」 当時は20歳がすごく大人だと思ってたし、それに結婚というのが計算通りにできるものではないということも知らなかった。「えー、やっぱハタチ」「私は25歳までかな」 気持ち頬を赤くしながら答える友人たちの中で、私はいつも「うちは絶対に結婚せんけん!」と言い張っていた。だって、結婚して幸福そうな夫婦なんて見たことがなかったから。
中学になって、ジョン・レノンを知った。私が8歳のときにすでにこの世を去っていた彼と、ヨーコとの姿に、「これが愛なんばい!」と世間のひとからだいぶ遅れて感銘を受けた。そして15年後にスペインなんて意外な場所で知り合ったReikoとそのパートナーのアントニオは、時折ヨーコとジョンに見える。
1980年代後半に大手商社でOLをしていたReikoがスペインと出合ったきっかけは、当時話題となっていた、ユニークなデザインの建物の前で奇妙な面をつけた女性が踊るCMだった(※)。ガウディのことはすでに知っていた彼女だが、テレビ画面でその建物を眺めるうちに、本気でスペイン旅行を考えるようになる。だから入社3年目ではじめて長期の休暇が取れたとき、迷わず行き先はスペインと決めた。
初めての海外、マドリードを訪れたのは9月前半。日本では初秋だが、スペインの学校はまだ夏休み。そののんびりした雰囲気と、昼食後はシエスタ(昼寝)タイムのため誰も街を歩いていないのを見て、驚いた。「都会なのに、こんなに静かなんて素敵」 こういうところに住んでみたいな。ちょっと、思った。
このときReikoと一緒に旅行をしたのは、中米エルサルバドルからの帰国子女。この国はスペイン語圏である。美術館やレストランで現地の人と楽しそうにコミュニケーションする彼女を見て「楽しそうでいいな」と思ったReikoは、旅行後すぐにスペイン語のクラスへ通いだした。やがて勉強のために、と聴きはじめたサルサにすっかりハマった。そして趣味となったラテン音楽を通じて、中南米出身の男性と出会い、恋愛関係となる。
交際を知った母親は「外国人は、駄目」と強く反対した。Riekoと母親は、もちろん喧嘩はするものの、あるときは友達のようにあるいは姉妹のようにとても仲が良く、それまで本当の意味での反抗はしたことがなかった。でも、このときだけは、彼女も譲らなかった。「わかりました。じゃあ私、家を出ます」 家の世話になりながら勝手なことは言えないと、家を出た。27歳、なにかに決別を告げたのかもしれなかった。
彼は常に「君は君の人生を生きろ」と励ましてくれた。その言葉に後押しされるように、彼女はスペイン留学を考えはじめる。OL生活も6年目、このまま同じことを続けていくのかという悩みもあった。だがそうすると、彼とは離れることになる。彼はそれは嫌だと言いながらも、「もともとは自分が言ったことだから」と反対はしなかった。
結局、彼女は退社と留学を決意した。語学力をつけて、それを活かせる職を見つけよう。資金を貯めるため、週末は会社に内緒でJRAのオペレーターのバイトをはじめた。面接のときに「会社の方はいいの?」と訊かれて、「はい、了承を得ています」と笑顔でウソもついた。こうして蓄えた額が300万円になった93年夏、彼女はマドリードへ旅立った。
第11回:半分のオレンジ(後編)