■新・汽車旅日記~平成ニッポン、いい日々旅立ち


杉山淳一
(すぎやま・じゅんいち)


1967年生まれ。東京出身。東急電鉄沿線在住。1996年よりフリーライターとしてIT、PCゲーム、Eスポーツ方面で活動。現在はほぼ鉄道専門。Webメディア連載「鉄道ニュース週報(マイナビ)」「週刊鉄道経済(ITmedia)」「この鉄道がすごい(文春オンライン)」「月刊乗り鉄話題(ねとらぼ)」などWebメディアに多数執筆。




第1回~第50回
までのバックナンバー


第51回:新交通「レオライナー」
-西武山口線-

第52回:花の絨毯
-西武池袋線・秩父線-

第53回:沈みゆく霊峰観光
-秩父鉄道-

第54回:懐かしい電車たち
-秩父鉄道-

第55回:狭すぎたメインストリート
-名鉄岐阜市内線-

第56回:一人旅の記憶
-名鉄揖斐線 -

第57回:裏通りの珍区間
-名鉄田神線-

第58回:路傍の鉄路
-名鉄美濃町線-

第59回:新緑の迷彩
-長良川鉄道-

第60回:ぐるっと中京
-JR太多線・名鉄羽島線・竹鼻線-

第61回:旅のルール
-途中下車-

第62回:ライブカメラに誘われて
-会津SL紀行・序-

第63回:旅の始まりはクロスシート
-東武日光線-

第64回:駅弁で朝食を
-東武鬼怒川線・野岩鉄道-

第65回:トレードマークは野口英世
-会津鉄道-

第66回:彼方から響く汽笛
-喜多方駅-

第67回:SL出発進行!
-磐越西線1-

第68回:大きな鉄道少年たち
-磐越西線2-

第69回:貴婦人の終着駅
-磐越西線3-

第70回:おもちゃのまち
-東武宇都宮線-

第71回:大聖堂と非電化複線
-宇都宮駅~関東鉄道常総線-

第72回:近藤勇の最後の陣
-総武流山電鉄-

第73回:薔薇とチヂミ
-都電荒川線 -

第74回:黒船電車の展望席
-JR伊東線・伊豆急行-




■連載完了コラム
感性工学的テキスト商品学
~書き言葉のマーケティング
 
[全24回] 
デジタル時事放談
~コンピュータ社会の理想と現実
 
[全15回]

■更新予定日:毎週木曜日

 
第75回:吉田松陰が駆けた道 -伊豆急行-

更新日2004/10/28


伊豆高原駅は2面の島式ホームがあり、それをドーム上の屋根が覆っている。東伊豆観光の拠点になっているためか、かなり大きな駅で、記憶の中の伊豆高原駅とは違う。ここで件の小学生たちがごっそり降りていく。「黒船夫人」の運転士がこちらを向き、手を振り笑顔で見送った。入れ替わりにふた組の家族連れが乗ってきた。展望車に感動した様子だが、さっきの賑わいに比べれば、卒業式のあとの体育館のように静かで寂しい。

長いトンネルをふたつ越えると伊豆熱川。駅のすぐそばにバナナワニ園がある。ここも小学生の時に行った。さっきの小学生たちも行くはずだ。バナナとワニの組み合わせは、あの頃も違和感を感じたし、いまもよくわからない。しかし、風景を思い出せたから、小学生の頃、私がここまで電車で来たことは確かである。この伊豆熱川から終点の伊豆急下田までが未乗区間だ。

片瀬白田駅の先から車窓に海が広がる。ここからが伊豆東海岸の車窓である。車内放送で、晴れていれば伊豆大島も見えるという。しかし外は相変わらずの曇天で、灰色の海と灰色の空が広がるばかり。天に愚痴を言っても始まらないけれど、なぜこんなに悔しいかと言えば、この電車が海の景色を楽しむために作られたからだ。先頭の展望席も素晴らしいが、中間車両もユニークで、座席が海側に向いている。伊豆急行の車窓に合わせた設計なのだ。


中間車両も展望席だ。

ところで、車体を真っ黒に染めた黒船電車の由来は、下田にペリー提督が来航してから150周年に当たる年を記念したものだ。1854年に徳川幕府はペリーと日米和親条約を結び、下田と函館を開港した。ペリーは条約が結ばれると、ただちに三浦半島の浦賀に停めた7隻の軍艦を率いて下田に向かった。条約は江戸で結ばれたけれど、今で言う"実務者レベルの協議"は下田で行なわれた。

このとき、無謀にも黒船に乗り込んで米国へ渡ろうとした男がいる。尊皇攘夷の志士、兵学者の吉田松陰。24歳の時であった。松陰は興味を持った場所には行かずにおれぬ性分だったようで、長州藩士時代に藩の許可を得ず東北へ行き、亡命の罪で士籍を剥奪されている。浦賀に黒船が来たときも駆けつけ、海外へ渡ろうと決意して長崎へ行く。そこでロシア船に乗ろうと企てるが失敗。下田に来たのはその翌年のことであった。下田港内の小さな島に隠れ、夜を待って小舟で艦隊に近づいた。そして黒船なかでもっとも大きなポーハタン号に接触し、米国行きを懇願した。しかし、米国にとって、国交樹立の大事なときに密航を許しては大問題で、松陰は幕府の役人に引き渡されてしまう。松下村塾を主催し、高杉晋作や伊藤博文などの門下生に道を説くのは、それから3年後のことであった。


灰色の海が広がる。

伊豆東海岸ルートは、吉田松陰が大志を抱き、黒船を目指した道である。だから車窓から伊豆大島が見えないくらいのことで残念がってはいけないのだ。その日が晴か雨かは知らないけれど、松陰はこの海から、遙かアメリカを見ようとしていた。そのゆかりの路を、黒船模様の電車が行く。しかし松陰のルートをなぞることはなく、トンネルに入って最短距離で下田を目指す。

伊豆急行は単線のローカル私鉄だが、関東の同規模の会社に比べると、トンネルや高架区間が多く、設備にお金がかかっている。これは建設時期が高度成長期にあたり、トンネルなど土木技術が発達した時代に作られたためだ。伊豆急行の歴史をたどると、東京急行電鉄の五島慶太会長が1953(昭和28)年に伊豆の観光開発に乗り出している。1959(昭和34)年に鉄道敷設免許が認可されると、31ヵ所もトンネルがあるというのに、突貫工事の結果、わずか2年で竣工した。開業は1961(昭和36)年で、新幹線開業の3年前であった。

開業を急いだ背景には、東急陣営と西武陣営の伊豆半島開発競争があった。現代経済史でも有名な、旧財閥同士の縄張り争いだ。しかし、この地に鉄道を敷こうと奔走した五島慶太会長は、開業を待たず免許交付の年にこの世を去っている。ボスの死にもかかわらず突貫工事が続行された背景には、三回忌に間に合わせよう、という意識があったのかもしれない。いずれにしても、日本がもっとも力強く加速していた時代を象徴する話である。


意外にも山岳風な区間が多い。

車窓は再び山岳路線になった。線路は山々に囲まれ、久々に左の車窓を眺めれば、天城峠の稜線が霧に包まれている。しっとりとした山の景色はいい。海に比べると、山の景色はどんな天候でも味わいがあるような気がする。それにしても伊豆急行の山岳路線ぶりは意外だ。海の景色ばかりでは退屈しそうだと思っていたけれど、車窓の変化が大きくて飽きない。「今は山中、今は浜、今は鉄橋わたるぞと……」という歌のままの風景だ。

終着駅下田に近づく。女性運転士が声で信号を確認している。
「えーてぃーえすかくにん! せいげん、にじゅうごーぉ」
凛とした声、前方を指さす白い手袋が清々しい。


下田駅の改札口は関所風のデザイン。

-…つづく

第74回~の行程図