第273回:流行り歌に寄せて No.83 「上を向いて歩こう」~昭和36年(1961年)
ビルボード(Billboard)……アメリカ合衆国の週刊音楽業界誌。1894年11月1日、『ビルボード・アドバタイジング』という誌名で、オハイオ州シンシナティで創刊。1936年11月1日、全米のジュークボックスで流れたヒット曲の一覧を掲載し、1940年7月27日号に初めて独自の統計から割り出したヒット曲のチャートを掲載した。1958年8月4日以降、シングルの販売とラジオ局でのリクエストなどを元に『ホット100』を掲載している。
キャッシュボックス(Cash Box)……ビルボード誌と同様、音楽チャートを掲載することで知られたアメリカ合衆国の週刊音楽業界誌。1942年7月(『ビルボードがチャート掲載を始めた2年後』創刊。1996年10月まで発行されていた。2006年からオンラインマガジンとして復活している。
『SUKIYAKI』こと『上を向いて歩こう』は、1963年、ビルボード誌で6月15日から6月29日まで3週連続全米1位、キャッシュボックス誌では6月15日から7月6日まで4週連続1位を獲得している。これは、どちらか一誌としてでも、また後にも先にもアジア圏の歌手が歌った歌としては一度もない快挙なのである。
ただし、当時よほどの洋楽ファンでない限り、ビルボード、キャッシュボックスの名前さえ知らない人がほとんどだったのだろう。現に、発売元の東芝レコードの反応でさえ、あまり遠い国での話で実感がなかったという感想を持っていたという。
『夢であいましょう』で共演していた黒柳徹子も、やはりその実感のなさから、祝福の言葉を探すのに苦労をしたと後に語っている。今であれば、すべてのマスコミ・メディアが狂喜乱舞して報道することであるのに、当時はまだ世界は広く大きかったのだろう。
「上を向いて歩こう」 永六輔:作詞 中村八大:作曲 坂本九:歌
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す春の日 一人ぼっちの夜
上を向いて歩こう
にじんだ星を数えて
思い出す夏の日 一人ぼっちの夜
幸せは雲の上に 幸せは空の上に
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら歩く 一人ぼっちの夜
思い出す秋の日 一人ぼっちの夜
悲しみは星の影に 悲しみは月の影に
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら歩く 一人ぼっちの夜
一人ぼっちの夜
中村八大は、永六輔に曲を渡すとき「永君、『歩きながら歌う歌』を作ってみようよ。(テンポを取りながら)このテンポで、そうこのテンポで歩く、ただ歩くと言うより少し哀しい方がいいかな」などと語りながら渡したのだという。
永は、他の八代とのコンビの曲も同様、『上を向いて歩こう』も作詞をするというよりも、与えられたメロディに言葉を当て込んでいくに近い作業だったという。「あの人は、人が作った詞を自由に切り刻んじゃう」。そう、笑って話す。
この歌の中でも、「思い出す春の日 ひとりぼっちの夜」の次は、「思い出す夏の日 ひとりぼっちの夜」と来ているのに、途中このフレーズをリフレインさせるのが効果的と考えたのか、「思い出す秋の日 ひとりぼっちの夜」の前に、「泣きながら歩く ひとりぼっちの夜」と、原則を変えて挿入したりしている。
永は当初、この歌を『踊子』などの叙情歌謡の名手、三浦洸一に歌わせたかったらしい。ところが八大が、洋楽のカヴァーを歌い続けていた、まだ19歳だった坂本九を連れてくる。
レコーディングの際、九が「ウヘホムフイテ」と歌い出したとき、その歌い方に、永は激しく怒ってしまい、「これでは絶対にヒットしない!!」と言い放ったという。彼は当時28歳、まだまだ血の気が多かったのだろう。そこを当時30歳、少し兄貴格だった八大が宥め、九本来の歌唱法でレコーディングを終えた。
九の歌唱法には、プレスリーや夭折したロックン・ローラー、バディ・ホリーなどの影響と共に、彼の母から教わった小唄、清元など邦楽の影響も色濃くあったという。後年、その結びつきを深く考え、世界的なヒットとの関係についても思いを巡らせているのが、当時激怒してしまった永六輔その人である。
-…つづく
第274回:流行り歌に寄せて
No.84 「寒い朝」~昭和37年(1962年)
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