第184回:流行り歌に寄せて No.1 「リンゴの唄」~昭和21年(1946年)
今回の震災で、お亡くなりになった方々のご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。まだ救助を待っている方々の一時でも早い救済と、傷病で苦しんでいる方々の早期のご回復を、心から願っております。
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私は東北方面の太平洋側には親戚と呼べる人たちはいない。ただ、以前の仕事でお世話になった、東京電力福島第一原子力発電所、及び東北電力女川原子力発電所の関係の方々、殊に宿泊先だった下宿のお母さんやお父さんたちの安否が何より心配である。無事であることを、ただひたすら祈っている。
地上波のテレビをつけると、ほとんどのテレビ局が一様に震災関係の報道を、延々と続けている。ある意味仕方のないことかも知れないが、あれをずっと見続けていれば、多くの人々は鬱屈とした気持ちに陥ってしまう。事実、一切被災していないのに、精神的なバランスを失ってきている人が増えていると言われている。
そんな中で、テレビ東京は報道の部分は押さえつつも、子ども向け番組や娯楽番組、歌謡番組をいつもの通り流している。3月13日(日)には、隠れた人気の歌謡番組『歌の楽園』もきっちり放映していた。この日のテーマは、「失恋ソング」特集だった。その意気や良し、こういう番組は絶対に必要なのである。
歌はいつでも、傷ついた人の心を癒す働きをすることができる。
さて、今から65年前、「戦争に敗れ、食べるものもなく、心身ともに疲弊していた人々の耳に、最初に飛び込んできた曲」として語られる、あまりにも有名な曲が『リンゴの唄』だが、実は戦時中に詞が作られたものの内容の「軟弱さ」ゆえに検閲が通らなかったということである。
『リンゴの唄』 サトウハチロー:作詞 万城目正:作曲 並木路子、霧島昇:唄
赤いリンゴに くちびる寄せて だまって見ている 青い空
リンゴは何にも いわないけれど リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
サトウハチローは戦争が終わって初めて作られた、松竹の映画『そよかぜ』の挿入歌として、戦時中にお蔵入りしていた『リンゴの唄』を使い、これを歌って主役を演じる女優として並木路子を強く推したという。彼女の明るい声に、国民を勇気づける歌を託したかったのだ。
一方、並木路子は昭和20年3月10日の東京大空襲で、年老いた母とともに戦火の中を逃げまどい、あまりの熱さに隅田川に飛び込んだが、母の方は流れに巻き込まれて命を失ってしまう。翌月の4月、傷心のうちに中国上海あたりを慰問団としてまわってくるが、目の当たりにしたのは心の荒みきった兵士たちの姿だった。
6月に日本に帰ってきたときは、東京駅はすでに東京駅ではなくなり、瓦礫とゴミの焼け野原が一面に広がっていた。さらに、彼女を待っていたのは兄と恋人の戦死の報だったのだ。
そして終戦を迎え、その8月の末に前述の映画の話を持ちかけられる。長いこと夢見ていたレコード・デビューだったが、とても歌う気持ちになれない並木は、その話を断った。けれども、サトウの強い情熱に絆され、彼女はその仕事を受けることにする。
レコーディングで並木は必死に歌い続けるが、いつまでたっても万城目正のオーケーは出ない。兄と恋人を戦地で亡くし、母まで東京大空襲で亡くした私が、とても明るい気分では歌えないと訴えたところ、万城目は、一言、「上野に行ってきなさい」と勧めたという。
言葉に促されるまま、並木は上野の闇市の中を歩き回り、大人に混じって必死に働く戦災孤児になった多くの子どもたちを知るのである。そして再びスタジオ入りし、万城目の励ましを受けながら、レコーディングを終えるのだ。
今や伝説になったとも言えるエピソードだが、ひとつの歌が、いろいろな人々の思いが呼応することによりできあがっていくのだということが、よく理解できる話だと思う。
今回資料を調べていて知ったのは、霧島昇がこの歌がヒットすることを見込んで、万城目に並木とデュエットさせてくれと直談判していたということ。二重唱により音の厚みが出て、間違いなく素敵な作品になっているが、穏やかな風貌の名歌手がなかなかの商魂をもっていたことに、少し微笑ましい思いがした。
私個人としては、イントロ、間奏ともに胸が高揚するようなリズミカルな演奏をしているコロムビア・オーケストラの音がとても素敵だと思う。それ以前までは、軍歌の演奏に終始していたのだろう。
憶測でものを言ってはいけないが、楽士という人たちは戦争嫌いの人たちが多いのではないか。ようやく軍歌以外の音楽を奏でられる開放感のようなものを感じるのは、私の思い込みだろうか。
歌の中では、「リ~ン~ゴッの気持ち~は」の部分が大好きだ。ワクワク感をリズムで表すとこうなるんだなあという、万城目の高度な手法が生かされているようだ。残念ながら、リズム音痴の私にはなかなかうまく歌えない箇所でもある。
そう言えば、私の母も家事をしながらよくこの歌を歌っていた。それなのに小学校の頃の私がこの歌を歌おうとすると、「お前にはまだ早い。まだそんな大人の歌は歌ってはいけない」と叱られたものだ。特別に男女の綾を歌ったものでもないし、今でもあまり納得できないが、何か子どもには歌わせたくない雰囲気を母親なりに感じていたのかもわからない。
-…つづく
第185回:流行り歌に寄せて
No.2 「かえり船」~昭和21年(1946年)
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