第123回:ラグビー、外国人助っ人列伝(1)
更新日2008/07/03
元オーストラリア代表で、ラグビー史上最高の139のキャップを保持し、世界一のスクラム・ハーフと呼ばれるジョージ・グレーガンが、日本のトップリーグのサントリーに入団することが決まった。
同じく元オーストラリア代表で、グレーガンとハーフ・バックスを組んでいた、スタンド・オフのスティーヴン・ラーカムはすでにリコー入りが決定している。さらには、前々回のラグビーW杯でオーストラリア代表のキャプテンをグレーガンが務めたとき、ニュージーランド、オール・ブラックスのキャプテンだった、フランカーのルーベン・ソーンもヤマハ入りを発表しているのだ。
これだけの豪華なワールドワイドの選手たちのプレーが日本で見られるのは、とても幸せなことだ。ここのところ20年少しで、日本のラグビー事情も大きく変わった。それ以前は、日本国内で活躍する外国人選手も、まして日本代表としてプレーする外国人選手も皆無だった(先日のフィジー戦では、一試合を通じて6人の外国人選手が出場していた)。
大雑把に、ここ20年あまりの間に活躍した外国人助っ人選手の中で、私の印象に強く残っている選手を何人かご紹介してみようと思う。「助っ人」というのは海外でプレーしていた選手が日本にやってきて活躍してくれることを言う。国内のチームだけで活躍した人と、日本代表としても活躍した人の二つのタイプがあるが、ここでは両者ともに触れる。
まずは、シナリ・ラトゥ(Sinali Latu)選手。彼はトンガの高校を卒業してから日本の大東文化大学に入学しているので、厳密には「助っ人」とは言えないかもしれない。ただ、間違いなく対戦相手の大学チームには、「とんでもない男を連れてきたな」と怖れられていただろうから、この範疇に入れても差し支えないだろう。
すでにその大学時代、1987年の第1回ラグビーW杯に日本代表の第3列として出場して、オーストラリア、アメリカと戦った。その後、第2回、第3回のW杯でも大いに活躍している。
圧巻は1989年、日本が歴史的な勝利をした秩父宮でのスコットランド戦。ここでトライを取られたら、日本の「勝利」が、「善戦」に変わっていただろうという究極の場面、自陣ゴールラインぎりぎり手前で、壮絶なタックルで相手をタッチ外に突き飛ばした。
今でもそのプレーを思い返す度に、私の胸は高鳴り出すのである。そのとんでもないビッグプレーの後、彼は普段通りの表情でポジションに戻る。「ラグビー選手はこうでなくっちゃ」。ただただ、格好いいのだ。
また、通称「ビル」のシナリ・ラトゥ選手は、とんでもなく凄い選手であるとともに、とんでもなくいい人でもある。いつ、どんなとき私たちが握手を求めても、にこやかに、そしてその人の握力に会わせて握手を返してくれる。その人柄が、出身の大東文化大学、三洋電機の監督を経験させたのだろう。現役時代184㎝、98㎏。日本代表キャップ32。
今度ご紹介する選手は、あまりメジャーな方ではないかも知れない。ただ、私にとってはとても印象に残る選手なのだ。
もう10年以上前の、とある晩秋の日曜日。近所のコンビニエンスストアにフラット立ち寄りビール棚を物色していたところ、顔中傷だらけの2メートルを越す大男に出会した。こちらは当然怯んでしまい、なるべく関わりにならぬよう目を合わせないでおこうとしたが、どこか見覚えのある顔である。
一瞬ひらめいた。「エニスさん、グレン・エニスさんですよね」。勇気を出して聞いてみた。その前日、江戸川陸上競技場でラグビー東日本社会人大会の初戦があり、私はサントリーの応援に行っていた。その時出場していたサントリーの巨漢ロックがこの人だったのだ。
「そうです、私、エニスです」「昨日の試合はタフでしたね」「うん、あまりよいゲームコントロールができませんでした」。たどたどしいが、はっきりと聞き取れる日本語だった。
グレン・エニス(Glenn Ennis)選手。元カナダ代表キャプテンとして第2回W杯では予選プールを勝ち抜き、見事決勝トーナメントに駒を進めた立役者である。その後、サントリーに入団し活躍を続けていた。話を聞くと、すぐ近所で暮らしている様子、以前から彼のファンだったが、ますます近いものを感じ、彼を好きになっていった。
最も思い出に残っているのは、1996年1月のサントリー、全国社会人大会準々決勝で神戸製鋼を同点ながらトライ数で上回り、神戸の8年連続日本一の野望を砕く。そして、決勝の三洋電機戦で、途中3-22の劣勢から盛り返し、同点にまで持ち込み、両チーム優勝ながらトライ数で上回って日本選手権出場を勝ち取った2試合である。
その時エニス選手は、相手選手を強烈なタックルで刺しまくり、敵の攻撃のテンポをことごとく崩していった。そして、2試合ともその年のサントリー・キャプテン永友洋司を試合後、我が子のように抱きかかえ上げ、観衆の大きな拍手を誘った。
彼のプレースタイルの特徴は、迫力ある突進力とどんな相手をも薙ぎ倒すディフェンス力とともに、どこかにインテリジェンスを感じる冷静な判断力にあったと思う。試合中も随所で、味方に大声で指示を飛ばしているのを目にした。ブリティッシュ・コロンビア大学からカナダ代表に到るまで、常にキャプテンシーを発揮してきた矜持を感じた。
時々、地下鉄銀座線の車中で、美しいブロンドの奥さんと試合に向かう姿を見かけ、彼らは二人ともにこやかに挨拶してくれていた。その後だいぶ経って、サントリーの土田元監督が私の店にいらした際、彼はカナダに帰り離婚をして、役者の仕事をしているらしいが、消息はつかめていないと話してくださった。
今でも彼はどうしているのかと気にかかる。限りなくごっつい顔をしていたが、その笑顔はとても穏やかだった。現役時代197㎝、105㎏。カナダ代表キャップ33。
-…つづく
第124回:ラグビー、外国人助っ人列伝(2)