第222回:流行り歌に寄せてNo.34
「この世の花」~昭和30年(1955年)
今から約34、5年前、私は中目黒駅近くの目黒川に面した小さな居酒屋さんに、週に3、4回は通っていたことがある。その店のマスターは、三味線のお師匠である養父と、店の2階で二人暮らしをされていた。
マスターは、ちょうど私の一回り上だったから34、5歳くらい、まだ独り者で、ほっそりと華奢な体型の、端正な顔つきをされた方だった。日頃はたいへん寡黙な人だったが、酒が回り興に入ると、店のステレオから流れてくるレコードの音に合わせて、なぜかしゃもじをマイク代わりにして歌い始めるのである。
マスターのレコード・コレクションのほとんどは、島倉千代子のもの。彼は、6歳も年の離れた、当時ちょうど40歳くらいの島倉の大ファンだった。時々、同好の士とともにコンサートに行ってきては、「今日のお千代さんは…」と、楽しそうに話されていたのを、今でも思い出すことができる。
マスターは、しゃもじマイクで彼女の当時の新曲も披露してくれたが(最後に聴かせていただいたのが『鳳仙花』だった気がする)、十八番(オハコ)は、デビュー曲『この世の花』だった。時には小さな振りを付けたりしながら、この歌を愛おしそうに歌われていた。
「この世の花」 西条八十:作詞 万城目正:作曲 島倉千代子:歌
1.
あかく咲く花 青い花
この世に咲く花 数々あれど
涙にぬれて 蕾のままに
散るは乙女の 初恋の花
2.
想うひとには 嫁がれず
想わぬひとの 言うまま気まま
悲しさこらえて 笑顔を見せて
散るもいじらし 初恋の花
3.
君のみ胸に 黒髪を
うずめたたのしい 想い出月夜
よろこび去りて 涙はのこる
夢は返らぬ 初恋の花
島倉千代子は、昭和13年3月30日の生まれ。映画『この世の花』の主題歌として吹き込まれたのがデビュー作となったのだが、この映画の劇場公開日が同年3月1日だから、16歳、日本音楽高等学校2年生でのレコード・デビューだった。
因みに、日本音楽高校に在籍した芸能人は数多くいるが、半数近くは中退の道を辿ることになる。島倉は在籍中に大ヒットを飛ばし、多忙を極めた中でもキチンと卒業している。
時代性もあり、当時の女性は早熟なのかも知れない。映画の主題歌ということで、その映画自体がいわゆるメロドラマ的な作品であるという背景もある。それでも、今の考え方で言えば高校2年生が歌う歌詞としては、かなり大人の雰囲気を持った歌のような気がする。
想っていない人の好きにされても、悲しさをこらえて、笑顔を見せながら散っていく、とはあまりにも哀しすぎはしないだろうか。
さて、島倉千代子も、先輩の美空ひばりたちと同様、幼い頃から物語を背負った人であった。7歳の時、疎開先の長野県で井戸水を運んでいたときに転倒し、水の入った瓶を割って左手首から肘にかけて裂傷を負った。
切断をするには至らなかったが、腕の感覚をなくし、思うように動かすことができなくなる。不憫に思った母親のナカが彼女に聞かせた歌が、戦後初の大ヒット曲『リンゴの唄』であった。
それは奇しくも、それから10年のちに与えられたデビュー曲と同じ作曲家、万城目正による作品だったのだ。
9歳の時に東京に戻る。歌唱力はあるものの小児麻痺のために、歌手にはなれない姉の敏子に代わって、自分が歌手になることを決意する。
実は12歳の時、童謡『お山のお猿』でテイチクレコードからレコードを出すのだが、そのジャケットに書かれた歌手名が誤植で、"戸倉千代子"とされたため、島倉千代子のデビュー作とならなかった、という不思議なエピソードも残っている。
誤植があったからと言って、島倉のデビューには間違いないはずだが、そういうものなのか。それよりも、今そのレコードを持っているとしたら、かなりの「お宝」になるはずだ、とつい考えてしまうのは、俗物ゆえの発想だろうか。
そして、昭和28年、15歳の時に前出の日本音楽高等学校に入学し、いくつかの歌謡コンクールにチャレンジを始める。そして翌年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、コロムビアレコードとの契約を果たすことになった。その後彼女は、今で言うアイドルの先駆け的な存在になっていくのである。
件の居酒屋のマスターに、あるお客さんがこう聞いたことがある。「マスター、お千代さんは元祖アイドルなんだって常日頃言ってるよね。ということは、マスターは元祖・アイドルの追っかけということになるね」。
-…つづく
第223回:流行り歌に寄せてNo.35
「月がとっても青いから」~昭和30年(1955年)
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