第16回:身分証明書
更新日2007/06/21
日本で外国人が合法的に働くとき、もちろん労働許可証と一緒になった外人登録をしなければなりません。日本に行く前にそういった書類を整え、日本に到着してから、市役所や区役所へ行き、そこで、写真と書類を出すと、運転免許証のように顔写真が付いた、プラスチックの外人登録カードが送られてきます。それが日本に居る間の身分証明書になります。私の場合、アメリカ政府がスポンサーになっていた関係上、とても簡単な手続きですべてスムーズに運びましたが、そうでないケースも沢山あることでしょう。
そして、日本に銀行口座を持つことができます。外国に銀行口座を持つとなんだか急に国際的な人間になったような気がします。私の場合、お給料がすべて銀行振込みなので、銀行口座をどうしても開かなければならなかっただけですが。
預金口座を開くとき、ハン(印鑑)が必要なことは日本人にとって当たり前のことですし、誰もがハンを持っていることでしょう。特別変わった姓名でもない限り駅前のキオスクや文房具屋さんで買うことができます。もちろんこんなことは日本では、お天道様が東から昇るのと同じくらい当たり前のことでしょうけど。
それが私には驚きだったのです。通帳とハンさえ持って行けば誰でもその口座からお金を引き出せることに驚いたのです。なんと人を信用しているシステムなんでしょう。しかも同じハンを文房具屋さんで誰でも簡単に買えるのです。周囲を見ていると、「チョット、代わりに銀行に行って、お金下ろしてきてくれる」と、通帳とハンを手渡していることがよくあることに気が付きました。銀行でも本人かどうか確認しようとはしません。
また、本人であるかどうかを証明するようなカード、証明書類のタグイは若い世代なら運転免許証を持っていますが、お年寄りで車を運転しない人は日本に沢山いますから、写真付きの身分証明書を全く持っていない人が沢山、沢山いることでしょう。本人であることを自ら証明する必要がないのが当たり前な社会なのです。
この当たり前のことを実行している国は意外と少ないのです。国家が国民に義務として写真付きのIDカードを持たせることなく民主国家を運営しているのは、非常に珍しいことです。恐らく先進国の中ではイギリスと日本くらいのものではないかしら。はじめから国家に、本人かどうかを確認する権利がなく、本人が望んだ場合だけ国民として自分の存在を証明するのは、なんと素晴らしいコンセプトでしょう。人間の性善説にのっとり、国家と国民、その国の住人の間での信頼関係がなければできることではありません。
短期間ですが住んだことのあるスペインでは、生まれると同時にカルネ・デ・イデンティダ(IDカード)を持たされます。アメリカでは社会保障番号(Social
Security Number)が与えられ、その番号が銀行口座、運転免許、パスポートの申請、税金申告など、すべてについて回ります。
この背番号は一種のパスワードのように働き、他人に知られないように秘密にしておくのが普通です。というのは、住所と社会保障番号でクレジットカードを発行してくれるので、万が一、他人に知られると、今大流行のID泥棒の被害者になる可能性があるからです。
写真の付いたカードは、各州が発行する運転免許証だけですが、日本と違い16歳以上の人は100パーセント(近くと言った方がいいかしら、私のおばあさんは91歳で亡くなりましたが、それまで運転していました)運転免許を持っているし、そこに社会保障番号が記載されているので、スーパーで買い物をする時でも、カードか小切手で支払うと、必ず運転免許の提示を要求されます。
当然のことのように、店員さんが運転免許証を見せてくれと要求し、何の抵抗もなく、私たちは「ハイッ」と見せていますが、その時車を運転しているわけではないし、免許の提示を要求できるのは、通常お巡りさんだけのはずです。なのに、誰も疑問に思っていないようです。
一つの通し番号で国民をコントロールできるのは、政府にとって、とてもやりやすい便利なことですが、一人ひとりの人間として、政府にそんな権利を持たせない生き方ができる国があることは、目を洗われるように新鮮なコンセプトとして深く印象に残りました。
第17回:枯れない人種