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■亜米利加よもやま通信 ~コロラドロッキーの山裾の町から
 

第811回:『ロスアンジェルス・タイムズ』を買った外科医

更新日2023/07/20


新聞離れが激しくなりました。紙に印刷された新聞を広げて読むより、インターネットでニュースを覗いた方が早い、いつでもどこでも、タブレット、スマホ、パソコンで大きな事件の概要を知ることができるのですから、わざわざお金を払って新聞を購入する価値がない、ということになってしまうのでしょう。

新聞社の経営も厳しくなり、どこも四苦八苦のようです。わずかな料金を取りインターネットでニュースを配信する新聞もたくさんあります。
 
アメリカでは飛行機で配られたり、ホテルに置いてある『US Today』や『Financial Times』を例外にすれば、大手の新聞はすべて地方紙です。『ニューヨーク・タイムズ』『ワシントン・ポスト』『ボストン・グローブ』『シカゴ・トリュヴューン』『ロスアンジェルス・タイムズ』など、その地域に密着したニュース、情報が主で、他の町のことは余程大きな事件でもない限り載りません。  
 
我がグレードパークには、ミニコミ紙『グレードパーク・ニュースレター』があり、谷間の町グランドジャンクションには、『デイリー・センティナル』という日刊紙があり、ローカルニュースを網羅しています。日本のように大手の新聞、『読売』『朝日』『毎日』のような全国紙はアメリカにありません。デンバー、カンサスシティーのような人口100万人程度の都市では、元々数社、少なくとも二社以上の新聞があったのですが、統合されたり、潰れたりで、一社だけになってしまいました。

ジャーナリズムというのは、反対意見があり、互いに批判し、競走することで、健全さを保ってきたのですが、大手一社だけになると多面性が失われます。それでも、新聞が発行され、読むことができればまだ良いのですが、それもなくなると、安直なテレビニュースかインターネットニュースだけになってしまい、民主主義の大前提である“言論の自由”の場さえ失われてしまいます。

新聞が続々消えていくことに危機感を持つ人はたくさんいるでしょうけど、斜陽産業の新聞を復活させようと乗り出す企業人はいません。逆に、巨万のお金を払っTwitterを買収したイーロン・マスク氏のような富豪はいるのですが…。

パトリック・スーンショング(Patrick Soon-Shiong)さんは、その名から分かるように中国系のアメリカ人です。でも、生まれたのは南アフリカです。パトリックさんは外科医であると同時に研究者で、膵臓移植では彼の右に出るものはいないと言われるほどの名医でした。日本でもそうでしょうけど、アメリカでは糖尿病が社会問題になるほど危機が迫っていましたから、パトリック博士の膵臓移植は注目を集めていました。ですが、膵臓移植は拒絶反応が強く、とても危険な手術です。言ってみれば、成功率が非常に低い手術なのです。

パトリック博士、勤めていた南カルフォルニア大学医学部を辞め、独自の研究所、調査機関を作り、研究に没頭したのです。それには、彼の取り扱った患者さんに億万長者、アイアコッカー氏(Lee Iacocca;クライスラーとフォードの会長だった)の奥さんがいた関係で、アイアコッカー氏、パトリック博士が存分に研究に打ち込めるよう、研究所設立のバックアップをしたことのようです。 
 
医学的にどういうことなのかはっきり理解しているわけではありませんが、パトリック博士、今まで行ってきた膵臓全体を移植するのではなく、インシュリンを作っている細胞だけを移植する研究をベテラン病院に移して始めたのです。
 
資金の提供者であるアイアコッカー氏は、パトリック博士が優れた外科医であるだけでなく、ずば抜けた知性の持ち主であることを見抜き、彼の研究成果を全世界に広げ企業化することを提案します。

パオリック博士は、「私はビジネスのことを全く知らないし、ただ自分の研究成果で多くの人を救えるなら、それで十分だ」と、今もごく普通の団地に住んでいる、とても謙遜な人柄なのですが、今日2023年現在、彼の評価額は少なく見積もっても8ビリヨンドル(80億ドル=1,120億円相当)にのぼっています。

というのは、パトリック博士、医療調査研究期間を六つの州に設立し、1,000人の研究スタッフを抱え、ガンやコロナの対策にも乗り出しているからです。パトリック博士自身、大金持ちになろうとしたわけではなさそうなのですが、周りが放っておかなかったというのが実情でしょう。今では、ロスアンジェルスではトップクラスの大金持ちの一人になっています。もちろん、アイアコッカー氏がビジネスサイドの助言者です。が、パトリック博士、自分が優れているのは医学の分野だけだとはっきり自認しており、全米から入ってくる莫大なお金を不動産や株式、投資信託などには投資せず、常に社会に還元しようとしていました。

彼の一番の財源は、抗がん剤とそれに伴う治療によるものです。彼の治療はとてもお金がかかり、それだけに、対抗勢力というのか反対するお医者さんのグループもいますし、患者さんから裁判で訴えらえることもよくあります。それにしても、一お医者さんがこんな巨万の富を意図せずに築くことができるのはアメリカならではことかもしれません。

2018年に、投資家でもないお医者さんが、赤字を抱えた新聞社を買い取った時、誰しも驚いたものです。全くの素人がお遊びで何をやるんだ、と思ったのです。

パトリック博士が『ロスアンジェルス・タイムズ(The LA Times)』と姉妹紙である『サンディエゴ・トリビューン(The San Diego Union Tribune)』に500ミリヨンドル(5億ドル=700億円相当)を払って、両新聞社を救済しようとした時、どんなもくろみ、勝算があったのか、下り坂の新聞業界を軌道に乗せる目算があったのでしょうか。パトリック博士は、「癌の治療よりも簡単なはずだ」と至って楽感的で的外れなコメントをしています。

彼はいつもそうですが、自分が関連し、投資した機関から、意図的に利益を上げようとしていません。しかし、ここが驚くべきところですが、アレよアレよと、まるで打出の小槌を振り回したかのように、自然に利益が、しかも膨大な利潤が生まれるのです。

彼自身、新聞社の経営に携わることはありません。すべて専門家に任せています。ただ、大きな方針というのか、方向性を持たせる、指示するだけのようなのです。
その方向というのが、今まで新聞社が築いてきたニュースを集め報道するだけだったのを、大きなニュース・メディアをインターネット、ハイテックの方に分配するというのです。これだけ優れた人材を抱える新聞社にはいくらでも他に生きる道があるはずだというのがパトリック博士の基本路線のようです。

『ロスアンジェルス・タイムズ』のニュース部門は合理化の波に揉まれ、縮小、大量首切りの瀬戸際でした。そこへまた、ポンと100ミリヨンドル(140億円相当)を追加し、ニュース・ルームを救ったりしています。お金は出すけど、口は出さないを実行しています。 
 
元々とても社会意識が強く、かつスポーツファンでもあるパトリックさん、大いにテレながら、自分が逆立ちをしても成れなかった、NBAバスケットボールの選手に肩入れするかのように、ロスアンジェルス・レイカーズのオーナーグループに仲間入りしています。彼が他のオーナーたちと違うところは、自宅、自分のオフィスの地下にフルサイズの練習場を作り、選手が練習し易い環境を作ったことでしょうか。

一外科医が天文学的な財産を築くのはアメリカならではのことでしょうけど、アメリカンドリームを実現した成金はたくさんいますが、敢えて斜陽産業に莫大な投資をする大金持ちは滅多にいません。パトリック博士の『ロスアンジェルス・タイムズ』投資がうまくいき、新聞業界全体がまた健全に発展していくことを願わずにはいられません。

 

 

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Grace Joy
(グレース・ジョイ)
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中西部の田舎で生まれ育ったせいでょうか、今でも波打つ小麦畑や地平線まで広がる牧草畑を見ると鳥肌が立つほど感動します。

現在、コロラド州の田舎町の大学で言語学を教えています。専門の言語学の課程で敬語、擬音語を通じて日本語の面白さを知りました。

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