第130回:お人好し大工のダヴィデ
スペインの大工さんは木工職人に近い(イメージ写真)
スペインで大工の“カルピンテーロ(carpintero)”というのは、家を建てる職業ではなく、建具屋、家具屋に近い木工職人のことだ。もっとも、木造の家屋などは皆無で、家の土台、壁は石かレンガ、屋根を支えるためだけに梁に図太い木材を使うだけだ。よって、カルピンテーロ(大工)の仕事は、窓枠、木製の日除けのペルシアーナ(persiana)、そしてドアと敷居の製作になる。注文生産で椅子やタンスなども作る。家の土台、壁は、アルバニール(albañil;石職人、左官)の仕事になる。
『カサ・デ・バンブー』を開店する前に、あたふたと台所用品だ、食器だと掻き集め、テーブルと椅子もマジョルカの家具卸し業者に注文した。ところが開店1週間前になっても、椅子が届かず、焦り出した。その時、私は家具、クローゼット、テーブル、椅子などは、作ってもらうものだと思っていなかった。でき上がった既製品を家具屋で買うものだとばかり思い込んでいたのだ。
マジョルカの業者にしても、地元の大工に椅子を作らせ、それをイビサに送るという中継ぎに過ぎないことを知らなかったのだ。困った時のゴメス頼みで、「そんならここに行ってみろ、アイツは良い仕事をするから…」と、大家のゴメスさんから“ダヴィ”(ダヴィデ=Davideを短くして呼んでいた)を紹介された。
ダヴィの仕事場は、イビサの町からサン・アントニオに行く街道筋にあった。職人を使わず、彼一人で切り盛りするには随分大きな工房だった。ダヴィは無精髭に半分禿げ上がった頭の大男で、私の条件、屋外で使うので丈夫なもの、期限は1週間で15、16脚というものだったが、フムフムと本気で聞いているのか、聞き流しているだけなのか、掴みきれない対応で、本当に大丈夫かなと思わせた。その時、私もズボラだったが、ダヴィも値段のことを言い出さなかった。もちろん、頭金なども預けなかったと思う。
不評だった麻紐のチクチク座面の椅子
あと2、3日で開店と言う時になって、ダヴィが椅子を満載したフルゴネッタ(furgoneta;小型のトラック)でやってきた時には感動した。オオよくぞ間に合わせてくれたとばかり喜んだのだった。椅子を荷台から降ろす時になって、何だか変な椅子であることに気がついたのだ。それもそのはずで、椅子のフレームと言うのか、外枠はあるのだが、尻を乗せる部分が抜けているのだ。
ダヴィにそのことを言うと、「そりゃ、俺の仕事じゃない。別にコモを張るヤツがいるから、そこへ持って行け…」と、そんなことも知らないのかと逆に呆れられたのだった。レストランを巡回しているコモ張りの叔父さんに出会う前だったから、それに期日も迫っていたので、麻紐を大量に買ってきて、自分で何とか張ったのだが、麻紐は尻がチクチクして、座り心地がよろしくなく、えらく評判が悪かった。結局、薄手の座布団クッションをその上に敷かなければならなかった。
ダヴィの椅子は、すべてが直角で太目の硬い木でガッチリ作られていたが座り心地は悪かった。でも、ともかく頑丈一点張りで、全くガタがこなかった。シーズンが最盛期を迎え、少しばかりカネ周りが良くなったので、ダヴィのところに椅子の代金を支払いに行った。
午前中だったが、ダヴィは日向で酒臭い息をしながら、まさにボーと座っていた。工房内に簡単な仕切りをしただけの小さな事務所に行き、小切手で支払った。「お前の小切手なら大丈夫だろうけど…」と言いながら、20枚くらいの不渡り小切手を扇のように広げ、「こいつらは、初めから払う気なんかないのに、小切手を書きおるのだ…」と愚痴るのだった。
ダヴィの工場からそう遠くない街道筋にレストラン、バル、ホテル業者向けの大きな卸売りセンターのような店舗ができた。そこへ時々、ナイフ、フォーク、釣銭用の皿など買いに行ったついでに彼の工房に顔を出した。ダヴィは、“オッ、お前か…”といった表情でニヤリと笑い、ほんの数分仕事の手を休め、『カサ・デ・バンブー』の客の入りは良いか、ドイツ人のデカイ尻にメゲズ、椅子は壊れていないか、万が一、タガが緩んできたらすぐに持って来い、直してやる…と決まり切った言葉を交わし、建設中のホテルの窓フレームを百何十枚受注したから、大忙しだと、半ば自慢するように言うのだった。
ダヴィは丁寧で良い仕事をするという評判だった。その結果と言うべきか、いつもたくさんの注文仕事を抱えていた。オフシーズンになって、足繁くダヴィの工房に顔を出すようになり、すぐに気付いたことだが、ダヴィに仕事が殺到するのは、頭金を取らず、製品を引き渡しと同時に全額支払うという契約すらなく、お金ができた時にでも払ってくれれば良い…という、前近代的な信用発注のせいだと分かった。彼の遣り方は、イビサがまだ小さな村で、互いに顔見知りであった時にはそれでよかったのかもしれないが、急激に膨張し、イビセンコ(イビサ人)よりヨソ者が多くなった時代に適応しないやり方だった。
私は手先が器用な方だし、モノを作るのも好きだった。ダヴィの工房で、彼の仕事ぶりや、機械類の扱いを見るのが楽しみとなった。彼の方も、冗談に、お前は見込みがあるからアシスタント、見習いに使ってやると言い出すまでになっていた。
その翌年だったと思うが、今度はダヴィが、本気で彼の工房のソシオ(socio;出資者、相棒)にならないかと持ちかかけてきたのだ。私にそんな話を持ち込んでくるくらいだから、よほど資金繰りに困っていたのだろう。もちろん、私にそんな資金があるわけでなく、半年働いて3、4ヵ月貧乏バックパック旅行ができるカフェテリアのオヤジ以上のことを望んでいなかった。
ダヴィはヴァレンシア、バルセロナから材木を仕入れていたが、そちらの方への支払いが滞り、材木を手に入れられなくなり始めたのだ。従って、仕事もできず、本来が職人のダヴィはなすこともなく、酒にハマリ出したのだった。一旦、酒に溺れ始めると、小銭稼ぎの個人の家の小さな仕事も来なくなった。そして、下り坂を転げ落ちるように、彼の人生そのものが崩壊して行ったのだった。奥さんも彼を見放し、実家に帰った。
その何年後だったか、春先に島に戻り、『カサ・デ・バンブー』の開店準備に取り掛かった時、ダヴィの工房へ寄ってみたが、シャッターは下ろされたままになっていた。
イビサ-サン・アントニオ街道
第131回:パブ『ワーグナー』のロイのこと
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