第11回:シヴィングトンという男 その2
南北戦争たけなわの時期だったので、余程北軍は(南軍もだが)人材が不足していたのとしか思えない。シヴィングトンを第一コロラド義勇騎兵隊大佐に任命している。ニューメキシコ、アリゾナでの戦歴が認められたのだろうか。その後、義勇軍全体を司る将軍にまでなっている。
だが、負けて捕虜になった南軍の従軍牧師は、シヴィングトンの捕虜の扱いが過酷すぎると抗議した文書が残っているところから、彼に偏執狂的性格があったことが知れる。
彼の指揮する第一コロラド義勇騎兵隊はデンバー郊外のチェリークリーク金鉱が2年続きの水害で閉山、縮小になり、あぶれた鉱夫たち、東部から金鉱熱に浮かされて流れてきた食い詰め者が多かった。それは北軍に限ったことではなく、南軍の方も主力のテキサスレンジャーも大半は仕事にありつけない牧童だった。両者共に正規の軍事訓練など全く受けずに戦場に送り込まれた、いわばならず者集団だった。
西部劇に観る、颯爽と風を切り進軍ラッパとともに突進して、急場を救う正義の味方のイメージとは凡そかけ離れた軍団だった。南軍の主力テキサスレンジャーには大きな利点があった。食い詰め者とはいえ牧童が多かったから、乗馬、馬の扱いに長けていた。北軍の方は、騎兵隊とはいえ、馬の扱いに不慣れな若者が多かった。
シヴィングトンがアブレ者集団の騎兵隊全体をどれだけコントロールしていたか、訓練を施していたか、疑わしい。系統的な命令に従う訓練など皆無ではなかったかと思える。
この第一コロラド義勇騎兵隊が、酔っ払い集団であったことはすでに知れ渡っていたようだ。翻って、シヴィングトン自身は一滴のアルコールも口にしない男ではあったが、戦闘前に自軍に禁酒を厳命しなかった。義勇軍にすれば、酒でも飲まなきゃ、こんな行軍、戦闘ができるか…というところだったのだろう。
一方、白人と自分たちインディアン(シャイアン族だが)の立場を比較的客観的に読むことのできたブラック・ケトルは、北軍のエドワード・ウェインコップ少佐に書状を送り、捕虜交換を申し出ている。
それが1864年の秋のことで、交換条約は成立し、その席、キャンプウエルドの和平会議に渋々の体だったコロラド領域の新知事ジョン・エヴァンスを引き込んでいる。それが1864年の9月28日のことだ。

1864年9月28日、コロラド州デンバーでの和平交渉に臨んだ
シャイアン族、カイオワ族、アラパホ族の首長の代表団。
前列左から2番目がブラック・ケトル。
もちろん、このような白人との交渉に応じるのは白人の軍事力を
身を持って体現しており、コモンセンスを持った平和的な酋長だけで、
ドッグソルジャーの長、ローマン・ノーズは参加していない。
また、この和平会議にシヴィングトンは関与していない、
というよりツンボ桟敷に置かれている。

シャイアン族の酋長、ブラック・ケトル
奇しくも、1864年9月28日は南軍のテロ集団のブラディー・アンダーソンが北軍の負傷兵をセントレリアで大虐殺を行なった日だ。
10月に入って間もなく、第三コロラド義勇騎兵隊を100日間の期限で打ち切る方針をカーチス将軍は打ち出してきた。とても軍需品、馬、食糧をカンサスの東から供給できなくなったからではないか。シヴィングトンの個人的な能力、軍の統率力を評価しなかったのかもしれないが、彼の軍歴も風前の灯火になった。
シヴィングトンはカーチス将軍宛に、ウェインコップ少佐は余りにインディアン懐柔策を取りすぎ、言ってみれば、インディアンに同情し過ぎだ、もっと強硬にインディアンを取り締まるべきだ(弾圧すべきだ)、根絶する以外に白人の平穏はありえない、という苦情と提案をしている。だが、その手紙は自分の身分を保身したいという下心が見え見えだった。
歴史に“もし”はないが、この時、カーチス将軍、ついてはエヴァンス知事らが、シヴィングトンの軍歴を詳しく調査し、彼が軍人として凡そ不向きな異常性格者だと見抜き、軍籍から外していれば、悲惨なサンドクリークの虐殺は起こり得なかったと信ずる。
カーチス将軍が下した決断は、シヴィングトンの騎兵隊にウェインコップ少佐の代わりにスコット・アンソニー少佐をアドバイザーとして付けるというどっち付かずのものだった。アドバイザーはその隊の長がアドバイザーの意見をよく聞く時に初めて、その役割を果たすが、独断的な隊長の下ではほとんど何の権限もない役職だった。
-…つづく
第12回:サンドクリークへの旅 その1
|