第47回:人類最初の芸術、アルタミラへ(4)
更新日2003/09/25
午前7時前、人影もまばらな夜明け前のサンタンデル(スペイン北部、新潟のような港町)鉄道駅構内。ついうっかり『ゴルゴ13も返り討ち』の警戒を解いていた私の隣に、いつしか遠くのベンチで寝ていたはずの男が移ってきて、しきりに「ねぇ、ねぇってば!」声を掛けてくる。
素早く、私は周囲を見回した。親切な警備員さんはほんの10メートルほど離れたところで立ち話中。駅員詰め所の中にもひとの気配。ドアは開いているので、万が一危なそうなときには逃げ込むことも可能とみた。あぁ、念には念を入れて、詰め所の中で待たせてもらえば良かったかなぁ。いくら臆病だ心配しすぎだと笑われても、なにかあったときに代価を払わなきゃいけないのは私自身なのだから。
いつでもダッシュできるようにバッグを抱え込み、「なんですか?」と問い返す。意外と若い男だった。「どこまで行くの?」 アルタミラ、と、答えかけて、口をつぐんだ。もしこのひとが怪しいひとだったら、どうするよ? ちょうど同じ方向だから一緒に行こう、なんて言われて、睡眠薬入りのジュースを勧められ、身ぐるみ剥がされて……。実際にそういうケースもあるわけだし。とっさに案内板で電車の行き先を確認し、「○○方面へ」とだけ答えた。「あぁ、そこなら俺の叔父さんが住んでるから良く知ってるよ」
(きた、きた……! 次は「案内しようか」だ、たぶん!) 私は緊張して腰を浮かしかけた。ところが男の話は、意外な方に進んだ。「その叔父さんがこんな朝早くの電車で来るっていうから待ってるんだけどさ、ぜんっぜん来やしないわけ。俺は夕べ遅くまで飲んでたし、眠くてさぁ。見てた? さっきまでそこに寝てたんだよ。それがさ、んーんって目が覚めたら日本人の女の子がこんな時間にこんな場所で地図広げて見てるじゃない。行き先わかってんのかなぁって心配になってさ。あーっ、さては怪しい奴だと思ったべ? やめてくれよなー。俺こう見えても、警察官になる勉強してるとこなんだぜー」
実は、ただの良いあんちゃんなのでした。
ハビエル24歳。将来は警察官。
そっかぁ、見知らぬ土地を旅行している不安感をベースにすると、ここまで疑っちゃうものなのだよね。旅行先のスペインで私に「怪しい者じゃないっすから」と話し掛けられた日本人のひとたちも、そら不審がって当然だわ。実際にそうやって高いもの売りつけたりするケースもあるそうだし。あぁ、なんともややこしい世の中やねぇ。
というわけですっかり安心してハビエルとMotoGP(オートバイ世界選手権。スペインで大人気のスポーツで、日本人選手も多く活躍)の話をしたり、警察官採用試験の面接の裏話(「君はゲイか?」と訊かれることなど)を聞いているうちに、出発の時間に。
「えー、マジもう行くのかよー。ウソだべー? 次の8時の電車でいいじゃーん。ちょ、マジ、ほら、そこでカフェでもしようぜー」 3つの単語につきひとつくらい俗語が挿入される若者言葉でしきりに引き止めるのを、「いや、行くねん」とあっさり振り切り電車に乗る。そうよ私はフリーライター主婦、アヴァンチュールはご法度なの。車内から振り返ると、ハビエルはすでに再び爆睡中。なんとなく、チッ、とかなんとか。
さて、山間にうっすらと霧が立ち込める中を、電車はゴトゴト進む。8時少し前に目的の大きな町トレラベガに着いたとき、ようやく東の空の雲が朝焼けで赤く染まったところだった。駅員詰め所で、サンティジャーナ・デル・マル村行きのバスのことを訊ねる。駅員さんは仲間を振り返った。「お前知ってるか?」「いや。○○なら知ってるんじゃねえか?」 駅員さんは、隣の部屋に続くドアを開けて叫んだ。「おーい、○○、お前知ってるかー?」
「いんや。でも△△が知ってると思うぞー。な、△△ー!」 私に端を発した質問は、次々と隣の部屋のさらに奥へ奥へと伝えられる。しばらくして、回答が再びリレー方式で届けられた。バスは8時30分、駅前広場から出るという。グラシアス。
確認のために駅前広場へ行くが、停留所らしきものはない。通りすがりの清掃員さんに聞いて位置を教えてもらい、それから駅へ戻って構内のカフェテリアへ。ちなみに改札というものがないから、駅は出入り自由なのだ。ここで、カフェテリアのおじさんにもバスの話のウラを取る。『スペインでは道を尋ねるとき、最低でも3人から同じ答えを聞くまで信じてはならない』というのが、私の経験から出た鉄則なのだ。
今回は駅員さん、清掃員さん、カフェテリアの店員さんと、ストレートのスリーカード。安心して朝食を楽しむ。置いてあったスポーツ紙を手にとり、レアル・マドリーのページを見ようとして、おっとここの地元チームはラシン・サンタンデルだったと思い、敬意を表してラシンの記事を読んでみる。そんなところから会話が弾まないこともない、という姑息な手段なのだが、この日は不発であった。皆さんも試してみてちょうだいね。
8時25分、バス停へ。ひとりぽつんと待っていたおばさんに、またしつこく行き先確認。答えはストレートのフォーカード、こいつはもう間違いない。ボロっちいバスは定刻通りに姿を現し、たった4人の乗客を乗せて出発する。料金は0.90ユーロ(約120円)。終点のサンティジャーナ・デル・マル村に到着したのは、8時50分だった。運転手さんに時刻表をもらい、帰りの乗り場を確認してから、バスを降りる。
「アルタミラの洞窟は、あっちだよ」 バスをUターンさせながら運転手さんが指差した方角には、朝陽を浴びてつやつやと輝く緑の丘が連なっていた。
なんの変哲もない坂道を、しばし歩く。ほどなく、大きく道がカーブするところで、「アルタミラの洞窟」という標識が現れた。……ついに、来たんだ! 立ち止まって、大きく息を吸った。瑞々しい空気が、胸いっぱい流れ込んできた。