第239回:流行り歌に寄せて
No.49 「東京のバスガール」~昭和32年(1957年)
この季節は、ワイシャツの袖を二つほど折っていたと思う。私の田舎ではスカートではなく、一年中紺か黒のズボン履きの姿だった。黒革の肩掛け鞄はかなりくたびれていて、そこから取り出した切符に、お客の行き先を聞いた後、リズミカルに鋏を入れていた。
バスの女車掌さん。たいがいの人は髪を短くしているか、後ろをヘアゴムで束ねていて、長い髪をした人を見た記憶がない。
マイクなど持たず、「次は中央通り、中央通り。お降りの方はお知らせください」と大きな声で発すると、お客の誰かが手を挙げたり、「はい、降ります」と声を掛けたりすれば、「はい、次停車しまーす」と、お客と同時に運転手にもサインを送る。
お客の応対がないと、「中央通りですが、降りる方はいらっしゃいませんね。はい、次通過」。私は、この「次、ツーカー」という言葉の響きが好きだった。
お客の乗降の際の扉の開け閉めも車掌さんの仕事。扉は折戸形式で、中央にあるレバーのようなものを引いたり、押したりしていた記憶がある。そして、乗り降りが安全に行なえたのかをしっかりと確認した後、一声、「発車 オーライ!」
「東京のバスガール」 丘灯至夫:作詞 上原げんと:作曲 コロムビア・ローズ:歌
1.
若い希望も 恋もある ビルの街から 山の手へ
紺の制服 身につけて 私は東京の バスガール
「発車 オーライ」 明るく 明るく 走るのよ
2.
昨日心に とめた方 今日はきれいな 人つれて
夢ははかなく 破れても くじけちゃいけない バスガール
「発車 オーライ」 明るく 明るく 走るのよ
3.
酔ったお客の 意地悪さ いやな言葉で どなられて
ホロリ落した ひとしずく それでも東京の バスガール
「発車 オーライ」 明るく 明るく 走るのよ
冒頭からつらつらと書いたのは、私が小学生の時分の長野県の諏訪バス(円の中にSの字が入った社章から、地元では、みんな「マルエスバス」と呼んでいた)の、車掌さんの様子だった。
この流行り歌のコラムを書き続けるにつけ、ずっと長い間覚えていたことが、実は微妙に違っていたということが、意外に多いことがわかってくる。この『東京のバスガール』も、ずっと都内を走る路線バスの車掌さんの歌だと思い込んでいた。
2番では、前の日に乗ってきた素敵な男性にほのかな思いを持ったのだが、今日になってはきれいな人とのアベックで乗ってこられてショボン。3番では酒場帰りのお客さんにどやしつけられてグスン。
そんな路線バス(1番の雰囲気ではターミナル駅から山の手方面を抜けて郊外へと走る)の車掌さんの日常、それが歌われていたのだとばかり思っていた。ところが、今回資料を読んでいくと、この歌のモデルはどうやら「はとバス」のバスガイドさんであったという説が有力なのである。
となると、2番は、前日はデートコースの下見のために男性一人で乗車、3番は団体客の中の一人が酔っぱらって絡んでいる、というあたりになるのか。微妙に風景は変わってくる。
どちらにしても、いろいろな思いを抱きながらも、健気に明るく働こうとするバス乗務員の女性の姿勢を、初代コロムビア・ローズが情感を込めて表現している。聴けば聴くほど、この人は実に上手で、良い歌い手さんだとつくづく思う。
さて、作詞家の丘灯至夫。昭和27年『あこがれの郵便馬車』、28年『みどりの馬車』、29年『高原列車は行く』、30年『あこがれの航海』、31年『自転車旅行』、そして32年『東京のバスガール』と、毎年1曲ずつ、海を、山を、高原を、そして街を走る乗り物の曲の詞を書いてヒットさせている。これは、偶然ではないだろう。
一方、作曲家の上原げんと。戦前から書き始めた上海、広東、東京の『花売娘』3作、『花の広東航路』『ニュー・トーキョー・ソング』『長崎シャンソン』『伊豆の佐太郎』そして、『東京のバスガール』と、こちらは、いわゆるご当地ソングを多く手がけている。
その二人の得意分野が、ちょうど交差する形で生まれたのが『東京のバスガール』だと言えるのではないか。そして、大袈裟に言えば、二人の才能が一瞬スパークしてでき上がった作品であるとも。
どちらも大変息が長く、それぞれが高名な作家と組んで、夥しい数の良い仕事を残した作詞家、作曲家であるが、二人のコンビによって作られた曲は、実はこの1曲しかないのである。
-…つづく
第240回:流行り歌に寄せて
No.50 「喜びも悲しみも幾歳月」~昭和32年(1957年)
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