第240回:流行り歌に寄せて No.50 「喜びも悲しみも幾歳月」~昭和32年(1957年)
木下恵介・原作、脚本、監督、主演・佐田啓二、高峰秀子による、この年に作られた、同名の松竹映画の主題歌である。
あまりにも有名な映画だが、私はテレビで放映されたとき観た記憶がうっすらとある程度で、あまり覚えていない。私にとって印象深いのは、映画化の8年後の昭和40年に作られたテレビドラマ版の方で、TBSの火曜日夜9時からの『木下恵介劇場』で放映されていた。
大辻司郎、松本典子主演のこのドラマは、家族全員で毎週欠かさず観ていた。当時、海に対しては恐怖心が強く、波打ち際に立つことさえできない少年だった私が、白い灯台の美しさに対する憧れと、灯台守という仕事に深い畏敬の念を持っていた。100パーセント、このドラマの影響だった。
「喜びも悲しみも幾歳月」 木下忠司:作詞作曲 若山彰:歌
1.
俺ら岬の 灯台守は 妻と二人で 沖行く船の
無事を祈って 灯をかざす 灯をかざす
2.
冬が来たぞと 海鳥啼けば 北は雪国 吹雪の夜の
沖に霧笛が 呼びかける 呼びかける
3.
離れ小島に 南の風が 吹けば春来る 花の香便り
遠い故里 思い出す 思い出す
4.
星を数えて 波の音きいて 共に過した 幾歳月の
よろこび悲しみ 目に浮ぶ 目に浮ぶ
実話を元に書かれた作品で、昭和7年、上海事変勃発の年の観音埼灯台勤務を皮切りに、石狩、伊豆大島、水ノ子、女島、弾埼、御前埼、安乗埼、男木島、再び御前埼、日和山と、25年にわたり、9都道府県10灯台を灯台守夫婦が渡り歩き、駐在生活を送る模様が描かれている。
その道のりには様々なことがあった。大きな戦争の中、多くの苦労を重ね、息子を事件で亡くすという深い心の傷を負う。しかし、最後には大切に育てた娘の幸せな結婚話がまとまり、ようやくしみじみとした喜びに浸ることができる、という展開である。
このドラマは、最初の映画化の後、3回テレビドラマ化(2回目・昭和47年、園井啓介、吉行和子版。3回目・昭和51年、北大路欣也、山本陽子版)されている。
そして、昭和61年には木下恵介が再びメガホンを取り、リメイク版として『新・喜びも悲しみも幾歳月』を加藤剛、大原麗子のコンビで再び映画が作られた。
その2本の映画、3本のテレビドラマの主題歌は、すべて若山彰による歌。リメイク版映画では、約30年ぶりに新しく吹き込み直すという力の入れようであった。
若山彰は、昭和2年に広島県の裕福な繊維問屋の家に生まれる。広島文理科大学在学中に音楽コンクールで入賞したことから、東京の武蔵野音楽学校へ入り直すことになった。
伊藤久男の『イヨマンテの夜』のバックコーラスのアルバイトをしたことから、オペラ歌手志望を流行歌歌手への道に変更した、と資料にはあるが、確かに二人の歌のテイストはよく似ていると思う。
昭和26年に『星空』という曲で日本コロムビアからデビューしたもののヒットには恵まれず、28年に歌手の安藤まり子と結婚し一女をもうけたが、3年後の31年には離婚をしている。離婚の翌年に、灯台守夫婦の歌を歌って大ヒットし、人気歌手になるのだから、運命の神様というのはなかなかにアイロニカルである。
その後は、『南極観測隊の歌』『氷海超えて』など厳しい職業の人々を歌ったり、多くの軍歌を歌ったりしていたが、読売ジャイアンツ『闘魂こめて』、阪神タイガース『六甲おろし』の双方をヒットさせたことでも有名である。
作詞作曲の木下忠司は、木下恵介の実弟。恵介とは四つ違いで、大正5年、静岡県浜松市に生まれる。若山と同じ武蔵音楽学校の出身(忠司の方が10年あまり先輩)で、交響楽団の編集の仕事に携わっていたが、応召される。
戦後復員し、兄の紹介で松竹の音楽部員となり、兄の監督作品の音楽を多く手がけるようになった。『二十四の瞳』は殊に有名である。兄の作品の他には『人間の條件』を始め戦争物の音楽担当も多い。
私たちに馴染みのあるのがテレビドラマの音楽で、『桃太郎侍』『特捜最前線』『鬼平犯科帳』なども手がけている。そして、山上路夫が作詞した、あまりにも有名な『あゝ人生に涙あり』(人生楽ありゃ苦もあるさ 涙の後には虹も出る)も、忠司が書いた曲である。
-…つづく
第241回:流行り歌に寄せて
No.51 「有楽町で逢いましょう」~昭和32年(1957年)
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