第24回：マニラ浮世風呂
更新日2007/11/29
フィリピーナ目的でやってくる日本人のおじさんたちの欲望の塊みたいなビルがマニラにある。地下がカジノ、１階は日本料理屋、３階がカラオケ、５階がサウナで、６階以上はホテルになっている。ホテルの宿泊には空港の送迎サービスがついているので、迎えの車に乗り込みさえすれば、あとはこのビルから一歩も外に出なくても事足りる。ある意味、都会の陸の孤島というか、究極の日本人村というか、目的のはっきりしたヒキコモリというか、なんとも形容しがたいところだ。
日本のスーパー銭湯は1000円、健康ランドでも2000円だから、サウナとマッサージで880ペソ（約2200円）という入湯料はフィリピンにしては高い。しかし、日中の強い日差しと高い湿気にさらされて汗だくのうえに排気ガスがまぶされ、マニラで一日生きていると全身どろどろになる。安宿はもちろん水、ちょっとマシなところでも日向湯しか出ないようなシャワーでは、汚れが落ちたような気がしない。日本人ならやはりたっぷりの熱い風呂につかって一日を締めくくりたい。
おそらく男風呂は日本人のおじさんで大盛況なのだろうが、女風呂はいつも空いていて、ほとんど貸し切り状態で、占領できるところも気に入っている。たまに来るのは、熱くて広い風呂に入りたい韓国人や中国人などの東洋人か、羽振りのよいハイソなフィリピン人、そして、日本人おやじに同伴されているとおぼしき商売女である。つまり、フィリピンに儲けに来ている外国人か、上流階級か最下層の両極端のフィリピン人しかここには来ない。
こんなにあからさまに富裕層と貧困層が交わるところなんて他にあるだろうか。しかも、お互いに裸である。なにも身につけていなくても両者の区別はすぐにつく。富裕層は中国系かスペイン系の血が濃いためか、色が白く、食べるのに困っていないのでぽっちゃりしている人が多い。
貧困層はその逆で、色黒でやせているが、日本人好みのかわいらしい顔立ちをしている。富裕層は来慣れているので堂々と落ち着いているが、水シャワーどころか、手桶で汲んだ水でしか身体を洗ったことのない貧困層は、シャワーブースに二人ずつ入ってみたり、身体にバスタオルを巻いたまま、湯船につかってみたりと落ち着かない。しかも、彼女たちにはお湯が熱すぎるので烏の行水ですぐに出ていってしまう。経験したことのない贅沢は、楽しめるようになるまで時間がかかるものらしい。それとも、お客に早く部屋に来るように言われて急いでいるのかもしれない。
半身浴をしたり、ミストサウナに入ったり、ときどき脱衣場に用意された飲み水を飲んで休みながら長湯をしていると、女の子が三人入ってきた。二人は長い黒髪で、いくらフィリピン人が若く見えるとはいえ、明らかに10代だった。もう一人は肉感的な身体つきで下腹部に大きな刺青を入れていた。20代後半に見える先輩格の彼女は、さすがによく来ているのか、ゆったりとジャグジーにつかっていた。シャワーを浴び終わった後輩二人を連れて、さあ、これから仕事だという感じで出ていった。
風呂の上にあるサロンでお茶を飲みながら日本の新聞を読んでゆっくりほてりを覚ます。ここからはマニラ湾に沈む夕日が見える。マニラで一番きれいなのはマニラ湾に沈む夕日とか言うけれど、それはこの街に他にきれいなものがなにもないからだろう。
だが、実はマニラを見下ろせば、もう一つきれいなものが見つかる。それは夜景だ。夜景のきれいな街は、必ず人口密度が高い。つまり、住宅事情が悪い。その中に身を置くにはゴミゴミしすぎるほどの街に限って、高く遠くから見下ろすと夜にはキラキラしている。そういうものだ。
欲望の塊ビルのすぐ近くの路上には、いつも同じ老夫婦がいる。路上生活者の彼らは、いつも同じ場所で人通りのある時間には飴やガムなどを売り、夕方廃材を集めてきて煮炊きをし、夜は二人身を寄せ合って道のくぼみに横たわっている。二人ともかなりの高齢で、小さく丸まって地べたにぺったり座りこんでいる。おばあさんの白髪頭は、黒く焼けた肌に痛々しく目立つ。老夫婦が暮らす同じ通りには、一家そろって路上で暮らしている家族が寝泊りをしている。夫婦や家族のホームレスがここでは珍しくない。
けっして安くはない風呂に入って、クーラーのきいた部屋でお茶を飲みながら日本の新聞を読んで出てきたら、いつも彼らの姿が目に飛び込んでくる。初めての湯船におどおどつかる若い女の子も、日に焼けた肌に深い皺の刻まれた老夫婦も、横断歩道の下で重なり合って眠る家族も、みんなお腹を満たすことだけで必死だ。
自分がたった今、贅沢をしてきたことに後ろめたささえ感じてしまう。排気ガスの天蓋に覆われたマニラは、つらい街である。彼らにしてみれば、行きずりの同情など余計なお世話なのかもしれないが。
第25回：出稼ぎ大国 ＜最終回＞
片岡 恭子
