第4回:酒場サルーンと女性たち その4
サルーンのオーナーにしてみれば、綺麗どころを集めれば、彼女らが客を呼ぶので、娼婦たちを歓待していた。だが、両者には契約などないのが普通だった。酒癖が悪く、客あしらいも下手な娼婦は、サルーンのバーテンダー、バウンサーに通りへホッポリ出された。
西部全体が酷い女日照りだったから、極言すれば、女でありさえすれば職にありつけた時代だった。
1849年、ゴールド・ラッシュの先駆けになったサンフランシスコでは、男10人に女一人だったという(レベッカ・ソルネット;Rebecca Solnitのゴールド・ラッシュによる)。女日照りは西部全般で、鉱山町では特にそれが激しく、ならして女性の比率は20~25%ではなかったかと言われている。
サルーンにタムロしていた娼婦たちの実態を調べた本、記事は呆れるくらい多い。それによると、サルーンの花は至って流動的で、ブームタウンのどこそこのサルーンは客層が良く、従って実入りが多いという情報、噂を耳にすると、即移動していた。日本の置き屋、遊郭のように金で縛られ、身売りした性奴隷のような存在ではなかった。

西部時代のサルーン女性のドレス
一体どのような女性が辺境のサルーンで働いていたのだろうか。そして、どんな理由でそこまで身を落とすことになったのかを調査した医者がいる。『売春の歴史』とタイトルした本を書いたウイリアム・W・サンジャー(William W. Sanger)は、1859年に2,000人の娼婦を対象にアンケート調査を行っている。
1859年といえば、北カリフォルニアに金鉱が発見され、黄金狂時代が始まってから10年後のゴールド・ラッシュ最盛期に当たる。この調査の対象になったのはサンフランシスコの娼婦たちで、私が取り上げている中西部の辺境の女性たちではないが、大まかな傾向に大差はないと思う。
理由の1番目は貧困で525名。2番目はInclination(傾斜、傾向) で坂道を転げ落ちるように、初めはウェイトレス、ダンスホールのダンサー、当然の帰結として手っ取り早く金を稼げる娼婦へと身を落としていった…というのが518名。
3番目は誘惑されて捨てられてで、女性が圧倒的に少なかった西部で、大雑把だが、男性4人に対し女性1人の割合だった。言ってみれば女性でありさえすれば、西部に行けばモテモテだと甘言にのせるのは容易だった。東部の大都会の貧民窟にポン引き師が入り込んで、どん底の女性を誘惑したというのでなく、若者よ、西へ行けというキャッチフレーズにのった男子が大勢いたのと同様、女性もその気になっていた。が、自分で西へ行く踏ん切りがつかないだけのタイプがたくさんいたのだろう。男が一緒に西部へ行こうと誘えば喜んで付いて来たのだろうか。だが、西部の現実は違った。女一人で生きて行くには、娼婦になるしか道がなかった…ということだろうか。それが258人。
4番目に多いのは、アル中か、ほとんどアル中で、一杯のウイスキーのために春を鬻(ひさ)ぐようになったというのが181人。5番目は家庭内暴力、両親あるいは夫に暴力を振るわれ、逃げ出し、行き着いたところがサルーンの女給、娼婦だったという身上のが164人。6番目は、正直にこれほど楽な人生は他にないからと、あっけらかんと認めているのが124名。
7番目は、悪い相方のせいで身を落とした、こんな女に誰がした?というタイプが84名。8番目は他の娼婦に説得されて…、ということはウェイトレスや賄いのような仕事をしていたところ、古株の娼婦などに、売春した方がはるかに稼げるよ…と口説かれたのだろう。これが71人。
続いて、単に怠け性だからが29人。強姦されて…が27人。移民船、移民列車、馬車で誘惑されて…が24名となっている。
このように娼婦の過去を洗う調査は難しい上、地域差がある。そんな事情を踏まえたにしろ、凡その目安にはなる。誰も好き好んでサルーンの娼婦になり、鉱夫の週給日に一晩に10人からの客を取ったりするわけがない。
ハリウッド西部劇に登場するサルーンの花のようにいつも豪華なドレスを着て、ウエストがキュッと締まっている美形は絶無ではないだろうけど、例外中の例外的存在だったようだ。彼女らがサルーンに出入りでき、そこで働けるのは、一般に2年間くらいだったと言われている。
肉体は性病とアルコールに侵され、自堕落になり、野たれ死にした者が多かった。たまには廉直、篤実な開拓民、農夫の妻になるケースもないではないが、非常にマレだった。第一、そんな開拓民はサルーンに出入りしなかったし、開拓民は現金を持っていなかったから、サルーンで散財などとてもできなかった。

Saloon Girls Costumes
-…つづく
第5回:酒場サルーンと女性たち その5
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