第5回:酒場サルーンと女性たち その5
サルーンのオーナーたちはどのような人物だったのだろうか。コロラド、モンタナ、アイダホ、アリゾナの国勢調査を元に丹念に統計を弾き出し、『ロッキー、鉱山町のサルーン』(The Saloon on the Rocky Mountain Mininig Frontier)と題する本をエリオット・ウエスト(Elliott West)が著した。
その本によると、サルーンのオーナーの国籍はアメリカ人57%、ドイツ人20%、アイルランド人7%、カナダ人7%、フランス人4%、その他5%とあり、ドイツ系アメリカ人、アイルランド系アメリカ人とせずにはっきりと彼らの出身国を明記している。
移民として受け入れられたがまだ国籍を取得していない外国人、恐らく移民一世だろう。サルーンを経営するくらいだから、西部の辺境事情に詳しく、相当の資金を持っていたに違いない。それにしてもサルーンの約半数(43%)が外国籍の人々で占められていたのは驚きだ。
アメリカの若者が黄金熱に冒されたように、ヨーロッパ人も多分にアメリカブームに煽られ渡米してきたヒト山組が多かった。その中に、ヨーロッパの旧態依然とした階級社会から逃れるべく、多少の金を持った一旗組もいたに違いない。
西部の土地を無償で与えるホームステッドの適応は、アメリカ国籍を持つ者に限られていたから、ヨーロッパからの新参者は土地を得ることができなかった事情もあるだろう。あくまで、この国勢調査によればの話だが、イタリア人、メキシコ人のサルーンオーナーがいないのが奇異に見える。資本を持ったイタリア人、メキシコ人移民は少なかったのだろうか。
それにアメリカ人が昔から抱いている“フランス女性=セクシー、娼婦型”というイメージに反し、フランス人のサルーン経営者、フランス美女を大勢抱えているはずのサルーンが少ない。フランス女性=娼婦はアメリカ人が抱く妄想なのだが…。
人種別に見ると、コーカソイド(白人)が99.8%を占め、白人王国の観がある。しかし、これは国勢調査のやり方に大いに問題があり、地元のインディアンや黒人、すでに相当数入っていた中国人などはハナから調査の対象にされなかったからだろう。
エリオット・ウエストの統計は、1870年と1880年の二度の国勢調査だけに基づいているにしろ、サルーンの名称とオーナーの名前まで記している詳細なものだ。

『The Saloon on the Rocky Mountain Mininig Frontier』 Elliott West
(1870年と1880年の二度の国勢調査統計より)
ロッキーで初めてサルーン・バーを開いたのは1858年12月のことで、場所はチェリークリーク(現在はデンヴァー市内)の金山だと言われている。開いたのはリッチェン“アンクル・デック”ワトソンという罠師、金鉱探しの山師で、交易を手がけたこともある四面六臂の活躍をしてきたエネルギッシュな男だった。ニューメキシコからタオス・ライトニング(Taos Lightning;ウイスキーではなく竜舌蘭から採ったテキーラ酒だったと思われる)を大量にチェリークリークに運び込み、簡易テントサルーンで呑ませ、大成功を拍した。
彼のサルーンは壁の下半分は木材だが、その上半分と屋根はテントという折衷小屋だった。新開発の鉱山町へ材木を運び込むのが困難だったとしても高くついた。鉄道前線の町の方があらゆる機材を持ち込むのに有利だった。鉱山町は山深い谷間に位置していたから、鉱山鉄道が敷かれるまですべての貨物、工具、鉱具はミュールの背で、馬車で運んでいた。ピアノが持ち込まれ、音楽が流れ、ダンスが可能になるのは、多くの場合、鉄道が来るまで待たなければならなかった。
ワトソンの成功を目の当たりにしたジレット・ベンスコット(Gillette Benscott)なる人物が、ウチは小麦から作った本物のウイスキーを呑ませるとテントサルーンを開いた。グラス一杯が25セントとある。
先鞭をつけたワトソンにスワッとばかり右へ倣えと開いたサルーンがチェリークリークに何軒あったのか、統計はないが、他の鉱山町のモリコッパ(アリゾナ州の鉱山町)では、西部劇によく出てくるような広いメインストリートに15軒ものサルーンがあった。当然、互いに競争していただろうが、それだけの数のサルーンを潤すだけの客がいたということだろう。
極端な例になるが、ロッキーの山中にある鉱山町レッドヴィルには、1884年から1887年の間に124軒のサルーンがあった。だがこの数字は、オーナーが変わっただけで同じサルーンを幾度も数えているようで、正確とは言い難い。他のリサーチでは87軒としている。それにしても、いかにブームタウンだったとはいえ、流動的な鉱夫たち、18歳以上の男は2万人ほどだったから、サルーン一軒当たり、成人男子80~100人の割り当て?になる。これはとんでもなく高い数値で、部落中がサロンだらけ、犬も歩けばサルーンに当たることになる。
こんなテントサルーンにも、もちろん便所はない。離れたところに設置してあるアウトハウス(便所)を使う、当然のことだが水道なんか全くない。井戸水を手押しポンプで汲み上げて使っていた。大抵のサルーンはレストランも兼ねていた。一体どんなモノを食わせていたのか興味が湧く。メニュー面ではステーキ、ハンバーグに茹でたイモが多く、豆類は高級だった。キドニービーンズにひき肉を混ぜ、辛口に味付けした“チリ”は人気がある食品だった。でも、冷蔵庫などない時代、この場所で一体どのように肉を保存していたのだろうか。
辺境にはビールが入っていなかった。というより、ビールを冷やす方法がなかった上、揺れる馬車で樽に詰めたビールを遠方から運んで来るリスクが高かったのだろう。西部劇でも暑い荒野を埃まみれになって渡ってきたカウボーイたちが、いの一番に欲しがるのは喉を潤おすビールだろうと思っていたが、泡立つ冷えたビールをゴクゴク呑むシーンが西部劇に皆無なのは、そんな事情が作用していたのだろう。
開祖、原始サルーンはテント小屋で、ただひたすら粗製のアルコールを掻っ込むだけのところだったのだ。と言っても、高山が開けたばかりの時は、鉱夫が寝起きするのもテントだった。鉱石を精製所まで運ぶトロッコのレールが敷かれ、鉱夫たちはヤマからそれに乗って、サルーンのある町とも呼べないような部落まで降りてくるようになった。

1874年のカンサス州、ダッジシティー、メインストリートに幅を効かすようにサルーンがある。
サルーンは町の集会所であり、中心だった。町の情報もそこに集まり、拡散していった。
一種の情報センターの役割を担っていた。
-…つづく
第6回:酒場サルーンと女性たち その6
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