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■新・汽車旅日記~平成ニッポン、いい日々旅立ち
 
第385回:長い家路へ - 阪急宝塚線2 -

更新日2011/08/04


今津線で宝塚駅に着いて、そのまま改札を出ずに19時09分発の宝塚線梅田行きの急行電車に乗った。フリーきっぷを持っているし、改札を出てひと回りする時間もある。しかし、家路に急ぐ人々を見ていたら、私も帰りたくなった。帰りのバスは梅田発23時20分を予約していた。ここから梅田までは急行電車で35分ほど。だから、まだまだ時間はある。宝塚劇場でも観に行こうかと思ったけれど、あの宝塚歌劇はついでに立ち寄るようなレベルではないだろう。


宝塚駅を出発、梅田へ

そもそも、今の私には、もう新しい何かを見に行く気力がない。梅田に戻って夕食を食べて、バスの発車時間まで、どこかでのんびり過ごしたい。そういえばここには福知山線も通っている。私はまだ福知山線の谷川より南側は未乗だった。福知山線に乗るときに、宝塚で途中下車しよう。その時は手塚治虫記念館にも立ち寄りたい。

手塚治虫といえばトキワ荘時代の逸話が多いけれど、彼は大阪の豊中で生まれ、宝塚で育ったという。ただし、いじめられっ子で戦争を経験したところだから、彼にとっては良い所ではなかったらしい。しかし、宝塚市が手塚治虫記念館を作ったとき、手塚治虫は、宝塚の自然の中で育った少年時代がみずからの漫画の原点だとコメントを寄せている。なによりも、手塚治虫のペンネームの治虫は、宝塚で夢中になった昆虫採集に由来している。

急行電車の車窓は暗かった。インクブルーの空の下、建物の輪郭だけが見える。やがて空は真っ暗になるだろう。しかし、梅田に近づけば街の夜景が見えるはずだ。田舎の列車の夜は寂しいけれど、都会の電車には景色がある。車内にも人がいる。夜の仕事に向かう華やかな女性もいたりする。夕刻の上り列車は、一日の終わりと始まりが混濁している。

宝塚線は歴史のある路線にふさわしく、駅名も厳かである。宝塚の次が清荒神。"きよしこうじん"と読む。駅名の由来となった清荒神清澄寺は同駅の北、約1kmにある。神と寺が同居する名前で、日本古来の神仏習合の形だ。ここには三宝荒神が祀られている。かまど神といって、台所の神様だという。去年、トイレの神様という歌が流行ったそうだけど、台所にも神様がいる。きっと風呂にも神様がいるし、玄関にも雨戸にもいるだろう。そういえば熊本で泊まったネットカフェは味噌天神のそばにあった。味噌にも神様がいる。酒にもいる。私たちは古来から神様に守られて暮らしていたわけだ。そしてときどき神様の怒りをかい、手痛い仕置きを受けている。


中山駅から中山寺の塔が見えた

清荒神の次は売布神社。"めふじんじゃ"と読む。これも難読駅名だ。由来となった神社は200mほどのところだ。下照姫神(シタテルヒメ)が困窮した人々に麻布の織リ方を教え、感謝した人々が下照姫神を祀ったそうだ。小林一三は参宮鉄道としての可能性にも期待していたようだ。次の中山駅は普通の名前だな、と思ったら、車内放送で中山観音前と言った。中山寺は真言宗の大きなお寺で、聖徳太子に由来するという。それでは次の山本駅はどうかといえば、山本寺も山本神社もない。しかし地図を見れば、神社や寺がたくさんある。江戸時代は寺に住民管理の役割をもたせていたというから、人の住む場所ではあったということだ。


普通の? 山本駅

その次の駅が雲雀丘花屋敷。ひばりがおかはなやしき。この世の天国のような名前である。もともとは雲雀丘と花屋敷というふたつの駅があって、統合してくっついたそうだ。東京なら、住宅地のブランドとして最強の名前だ。こちらではどうだろうか。やはり○○園のほうが上位だろうか。

雲雀丘花屋敷駅は、2面4線の緩急接続に対応した設備がある。しかし、この急行電車はここから5つ先の豊中まで各駅に停まる。特急は1つ先の川西能勢口から梅田へ向かう日生エクスプレスしか無いから、この駅で緩急接続はしていない。しかし、かつては宝塚線に全区間を走る特急が走っていたそうだ。ほぼ並行する国鉄福知山線に対抗した策だったという。そういえば、福知山線脱線事故が報じられたとき、福知山線と宝塚線の過度な競争があったと報じられた。


雲雀丘花屋敷駅

そうか。福知山線か……。私は大阪圏のJR線のほとんどに乗ったけれど、福知山線の南側と、それにつながる東西線にまだ乗っていない。いつかは乗ろうと思っていたまま、あの事故が起きて、そしてなんとなく乗りにくくなった。今は設備も改良され、スピード制限もされているから、電車に乗る怖さは無い。ただ、私の旅は物見遊山である。福知山線でのほほんと車窓を楽しむには、もうすこし時間が必要だと思う。

次は川西能勢口というアナウンスに、なにか懐かしさを感じた。今朝、初めて訪れた駅。それでも「戻ってきた」という感覚がある。見知らぬ場所で、ようやくひとりの友人を見つけたような、ほっとした気持ち。辺りはもうすっかり暗くなった。ここからは夜景を眺める旅になる。豊中から急行電車は速度を上げた。夜景の光点が増えて、正面にいくつかの高層ビルが近づいてきた。メガロポリスへようこそ。私は帰ってきた。いや、ここから帰るんだ。あの高層ビルの下から、東京行きのバスで……。


梅田の高層ビルから見た阪急の鉄橋

-…つづく

第385回の行程地図
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杉山 淳一
(すぎやま・じゅんいち)
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1967年生まれ。東京出身。東急電鉄沿線在住。1996年よりフリーライターとしてIT、PCゲーム、Eスポーツ方面で活動。現在はほぼ鉄道専門。Webメディア連載「鉄道ニュース週報(マイナビ)」「週刊鉄道経済(ITmedia)」「この鉄道がすごい(文春オンライン)」「月刊乗り鉄話題(ねとらぼ)」などWebメディアに多数執筆。

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