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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第12回:バッハを聴く資格 その2

更新日2022/01/27

 

1455年にグーテンベルグが活字印刷を作り出し、飛躍的に本という形で印刷物が広がった。ルッターの宗教改革も、彼がドイツ語に訳した聖書が印刷できたからこそ成就したと言ってもいいだろう。

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グーテンベルグの印刷機

Johannes Gutenbergが活版印刷を発明したと言われているが、異説もある。いずれにせよ、この機械、道具で印刷した42行聖書は広く行き渡り、盛名を遺した。

だが、楽譜は別物だ。一枚だけバカデカイ楽譜を聖歌隊の前に置き、それを争うように見ながら合唱団員、ソプラノ、アルト、テナー、バスは歌ったものらしい。今のように個人個人が楽譜を手にして歌ったり、楽譜スタンドを前に立て演奏したりできなかった。前に据えられた一つの超大型の楽譜を覗き見ながら、歌い、演奏したと言うのだ。

あのでっぷりとしたバッハの晩年から、チョット想像しにくいのだが、バッハはボーイソプラノだった。ワーッ可愛い! と日本公演ではいつまで経っても人気の衰えないウィーン少年合唱団のメンバーのようだった?のだろうか? ハイドンもシューベルトも、ボーイソプラノだった。

バッハがミッテン合唱団で唄っていた時のメンバーはソプラノ(ボーイソプラノ、バッハもそのうちの一人だった)5人で補欠2人、アルトは3人、テナーも3人、バスが2人という総勢13人の男の子で構成されていた(Bach A Biography;C. Sanford Terry Oxford University Pressによる。この本、ドイツの古典的バッハ研究書や1909年に書かれたHubert Parryの著作を踏まえた上での伝記で、出版は1928年だが、全く古さを感じさせない。バッハの伝記の傑作の一つと言って良いと思う)。

メンバーの名前まで掴んでいる。その13人の少年が一つの楽譜を見るのだから、楽譜が大きくなるわけだ。バッハはボーイソプラノだった時から、目だって優秀だったらしい。一つにはバッハが暗譜に長け、一度見た楽譜をそっくり記憶できたからだったと言われている。栴檀は双葉より香ばしを地で行っていたようなのだ。

無い物ネダリ、まったく不可能なことを承知で言うのだが、ボーイソプラノのバッハの声を聴きたかったと痛切に思う。

楽譜は普通の印刷物とは別だ。第一、ミサ曲など誰が買うのだ。教会のカントルンが市や教会のお偉方たちに財源を確保してもらい、一部だけ購入し、後は手写しで格パートをどうにか演奏できる形に持っていくのが精一杯だ。バッハは300にお及ぶカンタータを作曲したが、生前、印刷出版できたカンタータは一つしかない。それもミュールハウゼン時代、市参事が定期的に交代する儀式用に作曲したもので、これは新参事の自己顕示欲、言ってみれば、いとも賢き、やんごとなき市長の法律顧問アドルフ・シュトレッカーとゲオルグ・アダム・シュタインバッハの二人が、政治力と金力に物言わせて、いわば見栄で出版したものだ。

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バッハの生前に出版された唯一のカンタータの表紙

アドルフ・シュトレッカーとゲオルグ・アダム・シュタインバッハの名前は真ん中に大きくあり、作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハの名前は下の方に小さな活字で、その他大勢の一人のように記載されている。余程注意して探さなければ見つからないほどだ。この楽譜は200部印刷された。もちろん売るためではなく、記念贈答品のように配ったものだろう。

このカンタータの題は『Gott ist mein König』(神はわが王)とでも訳せばいいのだろうか。初演は1708年2月4日、ミュールハウゼンの聖マリア教会で演奏された。バッハは同地にあるもう一つの新ブラージウス教会のオルガニストだった。聖マリア教会を使ったのは、市参事の交代儀式は伝統的にそこで行うことになっていたし、バッハが作曲したカンタータのオーケストラ、合唱団、独唱者をブラージウス教会に収容できなかったからではないか。

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ミュールハウゼンの聖マリア教会
こんな地方の小都市に立派な教会が二つもあったことに驚く

ミュールハウゼン市では、6人の市長と42人の市参事委員がおり、彼らを三つに分けて1年の任期で交代で市政を敷いていた。3年に一度お勤めが回ってくる勘定になる。このカンタータの表紙にデカデカと名前がある二人の市長、シュットレッカーは法律家、シュタインバッハは肉屋だった。彼らの存在は、バッハが作曲したこのカンタータの表紙に名前が載ったことで後世に知れることになった。時にバッハ、23歳の時のことだった。

音楽自体はたとえ感動を与えたにしろ、時空の中に消えていく運命にあるが、楽譜は残る。

 

■ドイツ語の壁 1

あれは何度目のバッハ詣で、バッハ音楽祭の時のことだったろうか。バッハ音楽祭の締めはロ短調のミサという習慣になっている。その時、隣に座ったドイツ人のおっさんが話しかけてきて、「お前たちをあちらこちらの会場で見掛けたよ、ずいぶん熱心だな。見ろ、ここにいる聴衆の半分はお国の人じゃないか?」(これはドイツ的ホラ、大げさに過ぎる、多く見ても、日本人の聴衆はせいぜい五分の一にも満たなかったと思う。それにしてもたくさんいることは確かだが…)。「日本人のバッハ好きはどうなっているんだ? 第一、そんなにドイツ語が分かるのか、このミサや受難曲にしてもドイツ語の響き、詩的な韻が掴めなければ、半分もバッハの音楽を理解したことにならない…」と達者な英語で解説してくれたのだった。

日本のバッハファンがチケットのエージェントを通して大量に入場券を買占める、おかげで地元の人の手に入らなくなった。それに、入場券の値上がりはどうだろう、それも日本人のせいだ…という声をよく耳にした。そんな思いが、話しかけて来たおっさんには見え隠れしていた。

それにしても、このおっさんは私の痛いところを突いてきた。カンタータ、モテット、受難曲などがドイツ語で唄われるのだが、それが聞き取れない、というよりドイツ語文盲の私には意味がさっぱり分からないのだ。

英語でも、ボブ・ディラン(Bob Dylan)の歌も何を言っているのか分からない。「お前、もっとはっきり発音しろ…」と言いたくなるが、印刷された彼の詩集を見て、初めてなるほど、こんな詩だったのかとどうにか分かるのだ。

単調につぶやいているのか、歌っているのか判然としないレナード・コーエン(Leonard Cohen)の歌詞の方はまだ聞き取りやすい。いずれにしろ、日本の演歌、スペインのポップスの方がはるかに分かりやすい。


 

 

第13回:バッハを聴く資格 その3

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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