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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第13回:バッハを聴く資格 その3

更新日2022/02/03

 

■ドイツ語の壁 2

ドイツ人がバッハのミサ曲、受難曲を聞いて、何を言っているのか、歌っているのか、ドイツ語を聞き取れるものなのか、尋ね回ってみたことがある。

ケルン市の劇場監督であり、バイロイト音楽祭でワグナーの歌劇に出演するオペラ歌手、合唱団の発声、発音トレーナーを勤めていたイビサ時代のアパートの隣人ギュンターは、即座に、聴衆にはっきりと聞き取れないような発音で唄うなら、その歌手は失格だ。美しいドイツ語の響きを耳の奥まで届くように、感じさせるように唄うのが本物の歌手だ…とおっしゃるのだ。

同じ質問をバッハ音楽祭で会うドイツ人にしてみたところ、皆さん、何を今更といった表情で、明確に合唱、独唱のドイツ語が分かる、聞き取れると言うのだ。お前はドイツ語の持つ響きの美しさを聞き取れないでバッハを聴いているのか…? 可哀想にという表情をチラリと見せるのだ。

ちなみに、今住んでいるコロラドで、連れ合いが勤めていた大学でドイツ語の教鞭を取っているドイツ人の先生に伺ったところ、バッハファンはそれなりの予備知識があるから歌詞が分かるのかもしれない、それに幾度も同じ曲を聴いているから、自然に耳に入ってくるのだろう。でももし、全くバッハの音楽に興味のないドイツ人に聴かせたら、歌詞を100%聞き取れるかどうか怪しいものだと、答えてくれたのだ。

そして逆に、日本人でドイツ語の歌、ジャーマン・リード、たとえばシューベルトの『冬の旅』などのコンサートに駆けつける人は、ドイツ語の響き、美しさが本当に分かっているのだろうか…と、問い返されてしまった。

確かに、日本でバッハの受難曲やロ短調ミサのコンサートに駆けつける人の何割がドイツ語の響き、美しさを理解できているか、恐らくそんな人は10%もいないだろう。だからと言って、コンサートに来た聴衆がバッハの音楽を理解していない、とは言えない筋のものだ。それは全く別の次元のことだと思う。

ドイツ語を知らなければ、バッハのカンタータ、ミサ、受難曲の良さが分からないというのは、古代アラム語で書かれた旧約聖書、古代ギリシャ語で書かれた新約聖書を原語で読まなければ本当のコトは分からない、というようなものだ。ラテン語、英語、ドイツ語の翻訳では聖書本来の響きは伝わってこないというようなものだ。いかに優れた翻訳であれ、それは一つの創作であり、翻訳者の意図が必ず反映される。翻訳が原書を上回ることなどあり得ない。

聖書のドイツ語翻訳は、1517年のマルティン・ルッターのものが元になっている。英語の聖書はそれより少し遅れ1611年、ジェームズ1世が音頭をとって翻訳させたのが種本になっている。当然、古臭い中世英語からアーリーモダン英語である。そこから発生した無数とも言えるナントカ版の聖書が溢れている。

ついでながら、アパッチの酋長と同じ名前のジェロニモ(頭に聖が付くが)が、ラテン語に翻訳したのは382年のことで、その11年後、新約聖書の27章がヒッポ会議でやっとという感じで“正式”に採用、決定されたのだ。福音書が書かれてから300年も経てからのことだ。英訳、独訳もこのラテン語版が基本になっている。よって、翻訳の翻訳、マタマタ訳なのだ。当然のことだが、カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教の“聖書”は異なる。

聖書を原語のアラム語、古代ギリシャ語で読むことのできる人だけが、ホントウの信仰に到達し、信者になれる事実はない。バッハの音楽をドイツ語文盲のままで聴いて感動している私は、確かにドイツ語の語感を掴んでいないかもしれない。自分のドイツ語能力の低さ、無さを棚に上げて言うのだが、それで良いと思う。仕方がないと思う。

日本語で出版されている膨大なバッハ関連の本の著者は、皆さん、ドイツ語が達者なようだ。何度も登場してもらっている磯山雅(ただし)さんはじめ、辻壮一、阿部謹也、白水社のバッハ叢書にある角倉一郎のドイツ語からの翻訳や著作などなど、膨大な量になる。

シュヴァイツアー(Albert Schweitzer)がフランス語で書いた翻訳本『バッハ』も白水社から出版されている(シュヴァイツアーは元々、簡単なパンフレットをフランス語で出版したが、後に書き加え、私が読んだ英語版はドイツ語からの英訳だった。それが分厚い全三巻の本に膨れ上がって1905年に出版されている。McMillan社;翻訳はErnest Newman)。

No.13-01
磯山 雅著 『マタイ受難曲』の表紙 
何度もここに登場してもらったので、この本をお買いください、と宣伝しておきます。
出版社は東京書籍、ほかに『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』、
読みやすいところで『J.S.バッハ』(講談社現代新書)などがあります。
磯山さんは突然、事故で亡くなられました。ご冥福を祈るばかりです。

ほかにもワザワザ『マタイ受難曲を聞くときに』と題した鈴木順三の本もある。ほとんど唯一と言って良いと思うのだが、楽譜の出てこないバッハの本がある。『Hearing Bach’s Passion』(バッハの受難曲を聴くために;Daniel R. Melamed著;Oxford University Press)で、質問に答える形で受難曲の解説をする形式を取っている。これは、私のように楽譜、ドイツ語文盲者にはありがたい本だ。

古典中の古典とされているヴィンターフェルト(Karl von Winterfeldt)の大作『福音教会の賛美歌と作曲との関連』の数冊に及ぶドイツ語の本を見て、ため息をついただけで、全く読んでいないことを告白しなければならない。英語で書かれた古典は『ヨハン・セバスチャン・バッハ』と堂々と正面切って題を掲げ、副題として“偉大なる人格の形成物語”(The story of the development of a great personality)だろうか。著者は音楽史家、自身音楽家だったヒューバート・パリー(Charles Hubert Hastings Parry)で、1909年に出版されている。バッハの生涯と作品を知るには未だに格好の本だと思う。

近年になって、バッハ研究?が著しく進み、古典の間違いがたくさん指摘されるようになってきた。が、ドイツ語原典を読めず、楽譜文盲、音楽の基本的知識、教育のない私にとって、邦訳、英訳本を読む度に、アアそうか、そんなことだったかと頷くだけで、疑問を挟んだり、反論できない。バッハの音楽を聴いて楽しむように、研究者たちの本を慈しみながら読み飛ばしているだけだ。

服部幸三、樋口隆一、丸山桂介、吉田秀和と優れた研究、著作を読み漁るのに日本語だけで十分以上のボリュームがある。英語のモノより、翻訳を加えると出版されている量は多いのではないか、とさえ思う。それにしても、バッハ演奏家、研究家というのはとてつもなく凄い人たちだと感心するばかりだ。ただ残念なことは、日本人が書いた優れた著作がドイツ語や英語に翻訳出版されることが極端に少ないことだ。

一度、マタイ受難曲の総譜に、ドイツ語、英語の対訳が付いたのを手にしてコンサートに臨んだことがある。連れ合いが多少楽譜が読め、ドイツ語もほんの少しだができるので、インターネットで購入した総譜をコンサートに持ち込んだのだ。

当然のことだが、音楽大学の学生か先生、演奏家でもない限り、楽譜を見ながら音楽を聴くほどヤボなことはない。せっかく大枚を叩き、ライプツィヒに来ているのに、音楽に集中できなくなるのだ。あるいはリラックスして全身に染み込んでくる感動に身を任せることができなくなるのだ。総譜や対訳を手に音楽を聴くのは、感動の妨げになるだけで、より深く胸を揺さぶるような耽美的な流れをブッチギル効果しかないのだ。

ここで、自分自身に表現能力がないモノ書きが、よく偉い人物の言葉を引用する例になぞって、私も、アインシュタイン(Albert Einstein)のバッハについてのコメントを借用することにする。

「バッハの全生涯の作品について言うことがあるとすれば、ただひたすら聴き、演奏し、敬愛し、口を閉じていろ」
(This is what I have to say about Bach’s life work: listen, play, revere-and keep your trap shut.)

 

 

第14回:バッハを聴く資格 その4

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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