第366回:流行り歌に寄せて No.171「バラ色の雲」~昭和42年(1967年)
一口にグループ・サウンズ(以下:GS)と言っても、そのグループによりさまざまな音楽の形態を持っていた。後に言うアイドル歌謡もあれば、当時英国で流行していたポップスを目指していたものもあり、またガンガンのハードロック指向を持つもの、フォークソングに傾倒するもの、さらにはムード歌謡調なものまで多種多様だった。
本来はハードロックを演奏したくても、事務所の方針でアイドル歌謡のようなものばかりを充てがわれ、腐りながらもしぶしぶステージに立っているようなグループも、かなりの数あったようである。
そんな中で、ヴィレッジ・シンガーズは、前身が4人組のフォークグループ「フォーク・トレッカーズ」であり、ニューヨークのフォークソングの聖地と呼ばれたグリニッジ・ヴィレッジに憧れて付けられたグループ名であるなど、そちらの畑の色彩が強い。
当時、まだ英語を覚え始めだった私は「村の歌手たち」と勝手に訳してしまい、彼らの風貌とはかけ離れた素朴で田舎っぽいネーミングだと思い込んで、戸惑ったものだ。音楽の傾向は、シンプルなフォークというより、当時アメリカでブームになっていたフォークロックに近いようである。
初期のメンバーで、コロムビアからフォークロック調の『暗い砂浜』『君を求めて』と2曲続けてリリースするが、まだ国内ではあまり受け入れられる状況にはなっておらず、ヒットにはならなかった。
それにより、すでに発売前から脱退していた古関正裕(Kb.)の他に、南里孝夫(12stGt.)、森おさむ(Bs.)がそれぞれの理由でグループを去った。残ったオリジナルメンバーであるリーダーの小松久(Gt.)と林ゆたか(Dr.)は、欠けてしまったメンバーの掻き集めに奔走することになる。
そして都内を回った結果、それぞれブラブラと生活をしていた3人のメンバー、成蹊大学の学生、小池哲夫(Kb. Vo.)、明治大学の卒業生、笹井一臣(Bs)、そして成城大学の学生、清水道夫(Vo. Gt.)を加入させた。
清水などは髪と髭を無造作に伸ばし、麻雀に明け暮れていたという。そのボサボサ髪は、その後、他の長髪、脱色の髪が当たり前だったGSと違い、(ザ・ブルー・コメッツと同様)髪をきちっと七三に分けていた、ヴィレッジ・シンガーズの清潔なイメージとは随分と開きがある。
「バラ色の雲」橋本淳:作詞 筒美京平:作曲 森岡賢一郎:編曲 ヴィレッジ・シンガーズ:歌
バラ色の雲と 思い出をだいて
僕は行きたい 君の故郷へ
野菊をかざった 小舟の陰で
くちづけ交わした 海辺の町へ
*初めて見つけた 恋のよろこび
君はやさしく 涙をふいていた
バラ色の雲と 思い出をだいて
逢いに行きたい 海辺の町へ*
(*くり返し)
逢いに行きたい 海辺の町へ
ヴィレッジ・シンガーズのこの曲は、オリコンで2位まで浮上し、60万枚のレコード・セールスという大きなヒットとなった。実は旧メンバーによりすでに録音を終えていたが、リーダーの小松久の強い要望で、辣腕ディレクター泉明良の下、新しいメンバーで録音をし直したという。
結果的には、新しいヴォーカルの清水道夫の、甘い雰囲気を持つ歌声が、多くの女性ファンの心を捉えたのだろう。彼は、ジュリー、ショーケン、ヒデトのような狂熱的なファンに囲まれるようなことはあまりなかったようだが、着実にアイドル的な人気を掴んで行った。
林ゆたかは、GS後には俳優に転身し、70年代を中心に、あの時代が生み出した独特の屈折した役柄を演じるのがたいへん上手だった、ある種、怪優だった記憶がある。
リーダーの小松久も、当時は女性ファンに人気があり「貴公子」とまで呼ばれた人だったそうである。当時をあまり知らない私には、その後のTUBEやZARDのディレクターとしての仕事ぶりの方でその名前を聞くことが多い。
さて、今回ついに筒美京平の名前が登場する。70年代、80年代では夥しい数のヒット曲を送り出して世の中を席巻し、50年以上にわたりヒットメーカーとして活躍を続けている、作・編曲家である。
青山学院高等部時代の先輩、作詞家の橋本淳に誘われて、その橋本とコンビを組んで作曲の仕事を最初にしたのが、前年昭和41年に発表された『黄色いレモン』であった。この筒美京平のデビュー曲は藤浩一(後の子門真人)と望月浩の二人の歌手の競作となった。
但し、本名の渡辺栄吉を名乗っていた(後の)筒美は、当時レコード会社の社員であったことから、発生する問題を避けるため、作曲家のクレジットは彼の師匠である『すぎやまこういち』名義になっていた。
そして、この『バラ色の雲』のヒットで、改めて世間にその名を知られるようになる。その後も先輩の橋本淳と組んでGSではオックス、ザ・ジャガーズを売り続け、さらには、いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』を発表、これが驚異的な大ヒット曲となった。
その後の仕事ぶりは周知の通り。私の店の有線放送で、昭和50年代前後の歌謡曲のチャンネルを流していると、だいたい4曲に1曲の割合で筒美京平の曲が聞こえてくる。私の最も好きな作曲家であり、これからもこのコラムで何曲もご紹介することになるだろう。
-…つづく
第367回:流行り歌に寄せて No.172 「新宿そだち」~昭和42年(1967年)
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