第419回:流行り歌に寄せて No.219 「新宿の女」~昭和44年(1969年)
演歌の星を背負った宿命の少女!!
黒いベルベットに純白のギター!!
藤圭子のデビューシングル『新宿の女』のジャケットの袖には、そんな文字が書かれている。昭和26年7月5日生まれで、18歳になって2ヵ月20日後の昭和44年9月25日に、彼女はレコードデビューを果たす。
そのレコードを、文字通り「売り歩く」ために、その年の11月8日(土)午前9時から翌9日(日)午前10時まで、「新宿25時間キャンペーン」を行なった。
今はこの曲の歌碑が残る新宿・西向天神社で出陣式を行ない(マスコミ、報道関係者を多数呼んでいた)、黒いベルベットに純白のギターを抱え、昼は新宿のレコード店やテレビ局、雑誌社などを廻り、夜になれば歌声喫茶や居酒屋やスナックを廻って、ひたすら『新宿の女』を歌い、サインや握手に応じ、また歩き始める。
夜が明ける頃には、早朝食堂に入り、トラックの運転手さんたちの声援を受けながら歌い続けた。今でも一部このキャンペーンの模様の映像が残っているが、気が張っているためなのか、朝になってもあまり疲れた表情を見せずに歌っている姿が映し出されている。それにしても、本当に肝の据わった少女だと思う。
藤圭子は、まわりの大人たちが作った、冒頭にあるようなイメージに嵌め込まれて売り出された。貧しい家で育ち、薄幸で、暗い過去を持った、しかしお人形さんのように可憐な少女が、絞り出すようにどすの利いた声で歌う…。
さて、私は今まで数十回とこの曲を聴いているが、細かい点であるが気がついたことがある。冒頭の「私が男になれたなら 私は女をすてないわ」のところは「あたし」と歌っているが、3番の「ポイとビールの栓のよに 私を見捨てた人なのに」のところになると、「わたし」と発声している。
彼女の、デビュー当時の映像を見ると「あたしもさあ……じゃん」と、この頃の、ちょっとはすっぱな若い女性らしい話し方をしているのである。それがとても自然で可愛らしいのだが、「あたし」と「わたし」の歌い分けは、効果を考えた計算なのか、あるいは彼女に素直に歌わせた結果だったのだろうか。いつか一度聞いてみたい気がする。
「新宿の女」 石坂まさを・みずの稔:作詞 石坂まさを:作曲 小谷充:編曲 藤圭子:歌
私が男に なれたなら
私は女を 捨てないわ
ネオン暮らしの 蝶々には
やさしい言葉が しみたのよ
バカだな バカだな だまされちゃって
夜が冷たい 新宿の女
何度もあなたに 泣かされた
それでもすがった すがってた
まことつくせば いつの日か
わかってくれると 信じてた
バカだな バカだな だまされちゃって
夜が冷たい 新宿の女
あなたの夢みて 目が濡れた
夜更けのさみしい カウンター
ポイとビールの 栓のよに
私を見捨てた 人なのに
バカだな バカだな だまされちゃって
夜が冷たい 新宿の女
石坂まさを(昭和16年5月生まれ~平成25年3月、71歳没)とみずの稔(昭和12年11月生まれ)は、ともに作詞家・石本美由起の門下生。
年齢はみずのの方が4歳上だが、作詞家になったのは石坂の方が早かった。本来新宿生まれだった石坂の勧めで、名古屋から上京してきたみずのも新宿の下宿に住むことになったという。
みずの稔は、石坂の亡くなった年の平成25年10月に、75歳で佳山明生の『こんな女のブルース』を書きスマッシュ・ヒットをさせるなど、その健在ぶりを示している。
石坂まさをの最初のペンネームは「沢ノ井千江児」。本名は澤ノ井龍二だが、母親の名前が千江であり、母子家庭で育って母親への思いが強かったためそう名付けたようだ。石坂まさをに変えたのは『新宿の女』が売り出される直前のことだったという。
同じ石本門下で、父が東辰三(『港が見える丘』『君待てども』などの作詞・作曲者)であるいわばサラブレットで、洒落たセンスの詞を綴る山上路夫は「貴公子の山上」と呼ばれ、一方、荒削りな作品の多かった石坂は「野生児の沢ノ井」と呼ばれていたらしい。
私は「荒削りな」石坂の詞が好きだ。「ポイとビールの栓のよに 私を見捨てた人なのに」などという詞は、実はなかなか誰にも書けない。思い浮かんでも、使おうとしない。少なくとも、山上路夫は使わないだろう。それを俎上にのせて「ええい、どうだい!!」と意気込む石坂の姿勢が、たまらなく好ましい。
さて、藤圭子と石坂まさをは、この後まさに二人三脚のようにして歌謡界を駆け抜けていく。この後、その作品を何曲ご紹介できるか、自分の中では、かなり楽しみではある。
第420回:流行り歌に寄せて No.220 「三百六十五歩のマーチ」~昭和43年(1968年)、「真実一路のマーチ」~昭和44年(1969年)
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