第460回:流行り歌に寄せて No.260 「水色の恋」~昭和46年(1971年)10月1日リリース
今回の曲をご紹介するには、こちらのコラムに18年前に掲載させていただいた「70年代を駆け抜けたふたりのアイドル(1)〜二階のマリちゃん篇」の冒頭部を引用させていただく。(以下・引用)
彼女は隣屋の二階の窓辺に窮屈そうに腰掛けてギターを抱えながら、少し緊張した高音で『恋は水色』を歌い始めた。「青い空が・・・」。時は、昭和46年(1971年)、全国的に学校の夏休みが始まった7月21日。舞台は、TBSテレビ『時間ですよ』PART2の一場面。その後歴史的アイドルとなる天地真理19歳の夏、初デビューの瞬間だった。
私は、当時高校1年生の弱っちい柔道部員だった。間近に控えた部の合宿で先輩たちにどうしごかれるかと怯えながら、夏休みの初日を迎えていた。その日はテレビのナイター中継が早く終わったのか、夜9時にはCBCの『時間ですよ』にチャンネルを合わせた。番組の後半で件のスタイルで天地真理が出てきたとき、「何だか、やたらとつけまつげの長い女の子だな」というおぼろげな印象しか持たなかった。
『時間ですよ』は、当時TBS(愛知県ではCBC)水曜日夜9時から放映していた久世光彦演出の人気番組で、東京・五反田の「松の湯」が舞台になり、船越英二、森光子演ずる祥造、まつの経営者夫妻と、それを取り巻く健(堺正章)など、まわりの人々との生活をコミカルに描いたホームドラマだった。時々女湯のシーンが出てきたりして、高1の私には充分刺激的な番組だった。
この番組のPART1で銭湯のお手伝いさんを演じていた川口晶が降板したため、PART2では代役の女性のオーディションをし、その結果、西真澄という女の子が選ばれた。けれどもオーディションの審査員の一人であった森光子が、「この娘には捨てがたい魅力がある」と言って強力な意見を出し、新たな役を設けてもらったのが、当時、渡辺プロダクションに入って半年しか経っていない駆け出しの天地真理だった、というのはかなり有名な話だ。
「天地真理」というのは、梶原一騎原作の漫画『太陽の恋人』(吉沢京子、桜木健一の、あの『柔道一直線』コンビでテレビ化もされた)のヒロインの名前をそのままいただいている。だから私は、初めのうちこの名前を聞くと吉沢京子の方を思い出していた。
2学期に入ると、私たち男子生徒の中では少しずつ「『時間ですよ』見とるか? えれえ可愛い子出とるでよ」「裸の女ばっか、見とってかんて」「たあけかー、二階で歌っとる子だがや、勘違いしとったらいかんがや」という会話がささやかれ始めた。二階のマリちゃんは、徐々にその人気を浸透させていく。
そして、その年の10月1日、デビューシングル『水色の恋』を出す。『恋は水色』を反転させた、今考えてみるとちょっと安易な発想のタイトルだが、これがかなりの数売れて、最高位オリコン3位まで上った。
うなぎのぼりの人気、12月21日にはデビューアルバム『水色の恋/涙から明日へ』、オリジナルは『水色の恋』だけ、後は共演の堺正章の歌を初め、当時のフォークソングなどのカバーというなかば強引に仕上げた感があるLPだが、これがオリコンのトップに躍り出たのだ。(実は、私が昨年福島県に旅行に行った際、あるお寺の境内で行なわれていた骨董市でこのアルバムが売られていた。あまりの懐かしさについ買い求めてしまったのだが、保存状態が良く盤面もきれいな品で、金300円也だった)
我が高校のクラスでは、8割の男子生徒、5割の女子生徒が天地真理ファンとなっていった。入学当初、私と永遠のサユリスト(吉永小百合の熱心なファン)であることを誓い合ったS君の下敷きに鋏んであった写真も、『潮騒』の時の小百合嬢から、いつの間にかベレー帽を被った真理ちゃんに変わっていた。「フラフラと好きな女変えて、恥ずかしないんか?」となじったら、「ほっといてくれん、あんたには関係ないでしょう」と言われてしまった。
続けて出したシングル、『ちいさな恋』(72年2月)でオリコン1位。その後も『ひとりじゃないの』(72年6月)、『虹をわたって』(72年9月)、『若葉のささやき』(73年3月)、『恋する夏の日』(73年7月)、全部で5曲がオリコンで1位になり、当時驚異的な記録を作った。最近では作為的にチャートランクを上げる方法が横行しているが、純粋な人気という点ではその後のどんなアーティストも、この時の天地真理を凌ぐことはあり得ないと思う。
(以上・引用)
さて、『水色の恋』について、
田上えり PESCE CARLOS:作詞 田上みどり LATASA FELICIANO:作曲 森岡賢一郎:編曲
天地真理:歌
現在では、上記のように著作権の表示をするようである。これは最初、田上えり、田上みどりによって、第1回ヤマハポピュラーソングコンテスト(当初は「’69作曲コンクール」)でエントリーされたオリジナル曲だとされていた。
しかし、旋律の一部がアルゼンチン・タンゴの『ビクトリア・ホテル』と類似していたため、後年はそちらが原曲として扱われるようになったからである。
日本音楽著作権協会(JASRAC)での登録上は「外国作品」扱いとなっており、著作隣接権は他のところが持っているので、今回は私には判断がつかず、念のため歌詞の掲載はしないことにした。(どうぞ、ご容赦いただき、ご関心のある方はそちらのページを参照してください)
さて、田上(たのうえ)えり、みどりは三姉妹の、三女と長女である。当時、聖心女子短大の2年生で20歳のえりが書いた詞に、芸大の楽理科を卒業し23歳だったみどりが曲をつけたもので、最初の曲名は『小さな私』だったという。
天地真理と田上姉妹は、この曲の発売の翌年、昭和47年(1972年)1月9日に、『週刊明星』の企画で(記事は同月23日号に掲載)青山にある喫茶店で初対面、初対談している。
その時は、天地真理が国立音楽大学附属高校の出身でもあり、大学に行くとしたら楽理科に進みたいなど、姉のみどりと共通する話題も多くあり、初対面ながら、大いに盛り上がったという。また田上家の次女の名前が「まり」であり、そこにも不思議な縁を感じ取ったらしい。
今回、その時の記事の写真をネットで見ることができたが、3人ともこぼれるような笑顔がまぶしいような、とても素敵な写真である。
-…つづく
第461回:流行り歌に寄せて No.261 「夜が明けて」~昭和46年(1971年)10月21日リリース
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