第461回:流行り歌に寄せて No.261 「夜が明けて」~昭和46年(1971年)10月21日リリース
坂本スミ子という女性を考えた時、私は三つのシーンを思い浮かべる。
最初は、確か昭和46年度(1971年度)のNHK朝のテレビ小説『繭子ひとり』だったと思うが定かではない、そのドラマの中で、彼女が語りかけるように「小さい小さい僕でした」と歌っていた姿。
曲名も覚えていないし、どんなシチュエーションだったか、どのような服装をしていたのかも完全に忘れてしまったが、その歌っている様子、歌声だけは、50年以上経った今でも心の奥底に残っているのである。(JASRACさん、もしお分かりでしたら、どうか教えてください。利用曲報告いたします)
次は、昭和56年(1981年)のTBSのテレビドラマ『想い出づくり。』の中の森昌子演ずる佐伯のぶ代の母、静子役。夫・賢作を演じた前田武彦とのコンビは、庶民的であり、それが妙にリアルで滑稽な感じがして、大変に良かった。
余談になるが、このドラマの中で、田中裕子の父母役だった佐藤慶と佐々木すみ江、古手川祐子の父母役だった児玉清と谷口香。前の二人を含め、父母役だった6人の役者さん方は、揃ってもうこの世の人にいらっしゃらない。
三つ目のシーンは、昭和58年(1983年)、東映映画『楢山節考』でカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞し、フランスから帰国して降り立った成田国際空港での待機していた記者たちと彼女との会話である。
当然、カンヌでの受賞の話題だと思い、にこやかにインタビューに答えようとした矢先、記者から質問されたのは、彼女の大麻容疑に関わる話しで、彼女の顔からスーっと血の気が引いたのを、よく覚えている。私はその時、もちろん大麻容疑は重大な話題だが、まず受賞へのお祝いの言葉を先に述べるのが筋ではないかと思ったものだ。ヒロインから一転、容疑者として取材を受けた彼女の姿は、見ていて痛々しかった。
さて、今回の『夜が明けて』について、私はリアルタイムの高校1年生の時には、はっきりした記憶がない。先述の「小さい小さい僕でした」を聴いたのと同じ年の曲ではあるが、まったくとは言わないが、あまり覚えていないのである。やはり、当時の私には新三人娘など、アイドル系の方に関心が行っていたのかもしれない。
数年前、店の有線放送から流れてきたこの曲を聴いて「何か聴き覚えはあるけれど、何だったっけ? だけど、とてもいい曲だな」と思ったものである。
「夜が明けて」 なかにし礼:作詞 筒美京平:作・編曲 坂本スミ子:歌
夜が明けて手さぐりをしてみた
ぬけがらのとなりには
だれもいない
目をあけて部屋のなか見てみた
陽がもれる窓のそば
だれもいない
夢を追いかけて
ひとりふかすたばこのけむり
白い白い
夜が明けて夢をみたまくらに
あの人のかみの毛が
ひとつのこる
テーブルの灰皿の中には
あのひとのすいがらが
ひとつのこる
あせたくちびるをかんで
ひいたルージュの赤が
つらいつらい
われた手鏡に語りかける
おんなの朝は
ひとりひとり
資料によると、この曲は坂本スミ子が、CBSソニーに移籍しての第一弾シングルで、日音の村上司と、CBSソニーのディレクター・酒井政利とのコラボレーションによって生まれた曲とある。
彼らは、前年の朝丘雪路の大ヒット曲『雨がやんだら』(この曲のちょうど1年前にリリース)の制作にも携わっていた。長い間ヒット曲から遠ざかっていた朝丘を歌手として再生させたという実績で、カムバックを望む多くの女性歌手の多くから依頼が寄せられていたという。
村上司は『雨がやんだら』と全く同じように、なかにし礼と筒美京平に曲作りを依頼する。
ご覧の通り、なかにし礼は色気が漂い寂寥感を持つ詞を書いた。見えてくる映像は『雨がやんだら』に近いものがある。レコーディング当時、まもなく35歳という、女性の持つ情感を上手に引き出している詞の内容だと思う(朝丘雪路も前年の『雨がやんだら』レコーディング当時は35歳だった)。
そして、筒美京平。曲調、そしてチャランゴやケーナを彷彿させる、12弦やガットギター、リコーダーを使用するところなど、アンデスのフォルクローレを充分に意識して作られている。
もともと「ラテンの女王」と呼ばれていた坂本でもあり、この系統の曲はお手のものだという計算が、きっと筒美にはあったのだろう(彼女自身、その後『コンドルは飛んで行く』の録音をしている)。さらに、それらのものを取り入れながらも、しっかり歌謡曲にしているところは、驚くべきセンスだと言える。
『雨がやんだら』のご紹介の時にも、朝丘雪路の歌手としての実績をあまりに知らなすぎたことを書いたが、今回の坂本スミ子についても、ほぼ同じことが言える。
さすがに、NHKの『夢であいましょう』のレギュラーであり、主題歌を歌っていたことは知っていたが、NHK紅白歌合戦に5年連続で出場していたことは存じ上げなかった。
昭和36年(1961年)の第12回から昭和40年(1965年)の第16回まで、5年連続出場を果たしている。曲は『ア・ロ・ロコ』『エル・クンバンチェロ』『テ・キエロ・ディヒステ』『マラゲーニャ』『グラナダ』と、すべてラテンである。
私自身は実感がないが、その頃の日本では、思っている以上にラテン音楽を聴く人々が多かったのだろう。日本人の心に響く、独特な音の世界が、そこにはあったに違いない。
-…つづく
第462回:流行り歌に寄せて No.262 「別れの朝」~昭和46年(1971年)10月25日リリース
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