■亜米利加よもやま通信 ~コロラドロッキーの山裾の町から


Grace Joy
(グレース・ジョイ)




中西部の田舎で生まれ育ったせいでょうか、今でも波打つ小麦畑や地平線まで広がる牧草畑を見ると鳥肌が立つほど感動します。

現在、コロラド州の田舎町の大学で言語学を教えています。専門の言語学の課程で敬語、擬音語を通じて日本語の面白さを知りました。



第1回:男日照り、女日照り
第2回:アメリカデブ事情
第3回:日系人の新年会
第4回:若い女性と成熟した女性
第5回:人気の日本アニメ
第6回:ビル・ゲイツと私の健康保険
第7回:再びアメリカデブ談議
第8回:あまりにアメリカ的な!
第9回:リメイクとコピー
第10回:現代学生気質(カタギ)
第11回:刺 青
第12回:春とホームレス その1
第13回:春とホームレス その2
第14回:不自由の国アメリカ
第15回:討論の授業
第16回:身分証明書
第17回:枯れない人種
第18回:アメリカの税金
第19回:初めての日本
第20回:初めての日本 その2
第21回:日本道中膝栗毛 その1
第22回:日本道中膝栗毛 その2
第23回:日本後遺症
第24回:たけくらべ
第25回:長生きと平均寿命
第26回:新学期とお酒


■更新予定日:毎週木曜日

第27回:禁酒法とキャリー・ネイション

更新日2007/09/06


「禁酒なんて簡単さ、俺は今まで何度もやったよ」と言ったのは、ヘミングウェイだったかしら、それともアル中気味の詩人、デラン・トーマスだったかしら。

前回、アメリカのティーンエイジャーの飲酒問題のことを調べているとき、アメリカの禁酒法時代に先駆けた面白い人物に行き当たりました。彼女の名前は、キャリー・ネイション。

キャリーは1846年にケンタッキーの田舎に生まれ、21歳のときチャーリー・グロイドという若いお医者さんと恋に落ちて結婚します。その結婚が彼女の人生の方向を決めたといってよいでしょう。というのはダンナのチャーリーはとんでもない大酒飲みだったからです。

二人は当時まだフロンティアだったミズリー州に移りますが、ダンナのアルコール中毒はひどくなるばかりで、キャリーはついにダンナの元を離れ教職につき、自活し始めます。ダンナのチャーリーは6ヵ月後に死んでしまいます。

キャリーは31歳のときもう一度結婚しますが、その相手が19歳も年上の、弁護士兼牧師兼編集者という西部の知的職業を全部兼ね備えていたデイヴィッド・ネイション氏で、彼女の活躍の後ろ盾になってくれたのです。と、まあ、ここまではどこにでもある、アル中のダンナを持った開拓時代の女性の悲劇、そしてたくましく立ち直るというありきたりの話ですが、ここからキャリーはアメリカ史上とてもユニークな活躍をし始めます。

はじめ、キャリーは2番目のダンナ、ネイション氏の勧めで、教会の日曜学校でアルコールがいかに悪魔の飲み物であるか、魂を壊すか、家庭に悲劇をもたらすかを説教するだけでしたが、次第にエスカレートし、ついに実力行使に出たのです。

キャリーは身長が6フィート(約180センチ)、体重200ポンド(90キロ以上)の大女で、太い眉をグット寄せるように睨みを利かせた目と薄い唇をへの字に曲げてキリリと閉め、写真で見ただけでも、余り近くに居てもらいたくない雰囲気の女傑です。ヘビー級のレスラーのような体のキャリーが、「神託だ!」と言って、カンサス州の州都トペカのサロンバーのブッ壊しに出たのです。

1901年のことですから、彼女はすでに50歳半ばでしたが、彼女の体力はすさまじく、マサカリを振り回してサロンバーにあった、大きな鏡を粉々に割り、棚に並んだ悪の根源、ウィスキーの瓶を砕き、壁に掛かった怪しげな裸体画を引き裂き、ポーカーテーブルさえも粉砕したのです。

キャリーは暴れに暴れ、駆けつけたシェリフ4人でやっと彼女を押さえつけたと記録にあります。被害総額は、当時のお金で5,000ドル以上になったそうです。その時、サロンバーには40人からの男どもがいたそうですが、誰もキャリーの猛烈な狼藉を止めることができず、尻をまくって(これは私の想像ですが)逃げ惑ったそうです。

キャリーは拘置所でも意気盛んで、賛美歌を大声で歌い、アルコール弾劾の演説をぶち、シェリフたちもホトホト手を焼いたようです。が、これからキャリーの本格的な酒場ブチ壊し運動が始まるのです。

機関紙を二つも発行し、一つは『手斧』というタイトルで、キャリー・ネイションとハンドルに名前を彫り込んだ手斧、マサカリを通信販売で売ったりしています。ちなみに、カンサス州トペカのサロンバーをぶち壊したマサカリは、カンサス州立博物館に展示されています。

このマサカリは通信販売で売っていた薪割りに使えるようなヤワなものではなく、先の尖った刃金を恐竜の歯のように束ね合わせ、それに長いハンドルをつけた、タダひたすらモノを壊すだけの凶器なのです。

名前も、もともとCarrieだったのをこの私がこの国を動かすのだという意図を込めCarry Nationと変え大活躍をします。この時期、恐らくアメリカで一番有名な人物になったのです。

ここからが、まことにアメリカ的というのか、マスコミと宣伝の無責任さと言ったほうが言い当てているのか、ユニークな社会現象が起きます。

まずぶち壊しに遭ったサロンバーだけでなく、多くのバーが、「キャリー・ネイション、ここで暴れる」などとバーの宣伝に使い始めたのです。中にはメールオーダーで買ったマサカリを飾ったりして、客を呼んだサロンバーがかなりの数に及んだということです。 

そのうち、ウィスキー会社がキャリーの勇名に目を付け、「キャリー・ネイション・ウィスキー」を販売し始めました。また、一杯呑むとキャリーのように猛烈なエネルギーが体内に溢れ、怖いものがなくなるというカクテルが(これは同じ名前で幾つもの違ったカクテルがあったようですが)生み出されたりしました。

キャリーが町にやってくると、ビール会社が音楽隊を雇い、キャリーのテーマソングを演奏し、パレードを繰り広げたといいます。自社のビールをぶち壊してくれるとそれだけ宣伝になったのでしょう。

さらに、アメリカと言えばミュージカルです。キャリーはミュージカルに特別出演したのです。酒瓶やグラス、テーブル、椅子などをマサカリを振り回してぶち壊すだけの演技を披露しましたが、これが大いに受け、興行主は大もうけをしたそうです。

キャリーが暴れ始めた年、1901年に2番目のダンナも、きっとキャリーの言動についていけなくなったのでしょうか、彼女と離婚しています。

キャリーは1911年に亡くなりましたが、その8年後に悪法として名高い修正法案18条、つまり「禁酒法」が成立し、ギャングたちが活躍する土壌をつくったのです。

禁酒法のおかげで大もうけをしたアル・カポネと、禁酒運動の旗手キャリーが対決していれば、もっとアメリカ的なオハナシになったのに、と思います。それともマーク・ツインがもっと長生きしていれば、キャリー・ネイションの話を面白おかしく書いてくれたでしょうね。

 

 

第28回:太さと貧しさ