第686回:小沢孝雄さんのこと
私が大学で外国からの留学生の世話役のようなことをしていた時、その大半の留学生、主に東ヨーロッパからの学生さん、ブルガリア、ルーマニア、チェコ、スロバキア、クロアチア、ユーゴスラビア、ロシア、ウクライナ、アジアではベトナム、フィリピン、インド、パキスタンから来た学生さんのほとんどは、卒業した後もアメリカで仕事に就き、アメリカに住みたい、いわば居住権を取り、行く末はアメリカ国籍を取ることを望んでいました。これが中南米の学生さんですと、100%アメリカ人になりたい、なろうとしていました。逆に日本、ドイツ、フランスやスカンジナヴィアの国からの留学生は、卒業後、すぐに彼らの母国へ帰っていくのです。
年に一度、国際留学生を集め、自宅で簡単なパーティーをやっていました。そんな時、ウチのダンナさんがいつでもアメリカ国籍を取得できるのに、何時までも外人、“エーリアン(グリーンカード所持者)”でいることを知ると、信じられない、何と勿体ないと、若い学生さんたちは口を揃えて言うのです。
確かに、アメリカの移民法は長く苦しい法廷闘争のあと、やっとという感じで異種の民族、毛色、肌の色の違う人種にも、公義的ですが公平に門を広げました。丁度黒人の公民権運動のように、そこには差別と戦ってきた人たちの犠牲があったと思います。
小沢孝雄さんの名前を知っている人は日系人でも少ないかもしれません。でも、日本人のアメリカ移民の歴史では、とても重要な人物です。
小沢さんは1875年6月15日に神奈川で生まれました。日本風に言えば、レッキとした明治人です。両親に連れられアメリカに渡って来たのは1894年と言いますから、彼が18、19歳の時です。余程勤勉で且つ優秀だったのでしょう、移住先のハワイから、高校はバークレー・ハイスクール、そして大学はカリフォルニア大学(University Of California)に進んでいます。
当時、大学はまだエリートの学府でした。小沢さんはアメリカが好きだったのでしょう、敬虔なクリスチャンであり、日常、家庭でも米語を使い、米国人の友人もたくさん持っていました。早く言えば、地元によく解け込み、アメリカ人として生活していたのです。ソロー(Henry David Thoreau;『森の生活/ウォールデン』の著者)やエマーソン(Ralph Waldo Emerson:詩人)を愛読したと言いますからナチュラリスト、自然を愛した人なのでしょう。
おまけに、第一次世界大戦の時、アメリカ軍の兵役につき3年間軍務に付いています。後の裁判で提出した書類を見ますと、名誉除隊(Honorary Discharge)となっているので、兵役中も生真面目に軍務を果たし、有能な兵士であったことは間違いありません。
小沢さんは何度かアメリカの市民権、国籍を取得しようと申請していますが、その都度却下され、周囲のアメリカ人の勧めもあって1922年11月13日に裁判に訴えて出たのです。実際、小沢さんほどすべての条件を備え持ったアメリカへの移民は想像できません。彼はすでに20年以上アメリカに住み、カリフォルニア大学を卒業し、納税義務を果たし、加えてアメリカ軍人として兵役まで済ませているのです。これほど理想的なアメリカ人候補はあり得ません。
ところが最高裁では、コーカソイド(平たく言えば白色人種)でないという理由で却下したのです。ヒットラーのアーリア人種純血主義と同様の偏見を政府が示したのです。
この判決には時代背景があり、当時マジメに一生懸命働くアジア人、中国人、日本人が農業、洗濯屋さんだけでなく、あらゆる分野に進出し、成功し始めていましたから、自分の仕事を奪われると恐怖した先住移民のアメリカ人が大勢いたのです。いわば黄禍の時代でした。
小沢さんが裁判で却下された3ヵ月後、インド人の実業家バガッツ・シン・シント(Bhagat Singh Thsind)さんが、アメリカ国籍取得の申請をし、裁判に訴えて出ました。これはそのすぐ前に、アルメニア人はインド・ユーロッパ族のコーカソイドであるとして国籍を取得しているのを受けて、それなら私たちインド人もコーカソイドだ、よってアメリカ人になる資格があると判断したのです。
ところが、裁判では巧みに人種、肌の色の問題を回避し、アメリカの国内事情を盾に彼の申告を却下したのです。くだんのインド人, シントさんは自分がアメリカで営々と築いてきた資産、人的財産などすべてが虚しくなったと、アメリカ政府に抗議する意味でしょうか、絶望からでしょうか、自殺しています。
真珠湾のはるか20年も前から排日運動は盛んになっていました。それを法的に後押しするように1924年には、はっきりと排日法が成立し、日本人は入国禁止、帰化不能外国人となり、まるで犯罪者同様に分類されたのです。
それから日系人の苦しい時代が始まります。大戦中は財産を没収され、強制収容所に入れられ、戦争が終わってからも、差別、偏見と戦わなければなりませんでした。法的にはウオルター・マッカラン法が成立し、やっと敵国人から人間並みに扱われるようになりました。
先達の日本人が踏んできたイバラの道に比べ、本人がその気になりさえすればすぐにもアメリカ国籍が取れるウチのダンナさんは、とても恵まれていると言ってよいでしょう。今の日米関係は長く苦しい日系人の犠牲の上に成り立っている(一部は)と言っても、言い過ぎではないと思います。
ウチのダンナさんの場合は、アメリカというかコロラドの山、空、隣人たちがとても気に入っていることは確かなのですが、ただ、星条旗の前で胸に手を当て、アメリカに忠誠を誓う儀式を嫌い、“あんな、アホなこと俺に出来るか!”というだけの理由で、アメリカ人になりたくないのではないかと、私は密かに見抜いています。
戦前、戦中の日系人が聞いたら、なんと贅沢な我侭を言っているんだと思うことでしょうし、もし小沢さんが生きていて、ウチのダンナさんのような態度を目にしたら、怒り狂うことでしょうね。
「オメー、そりゃ人間はその時代にしか生きることができない、時代の子なんだから、先人たちの苦労は偲ぶけど、今の俺にはアメリカ人になるかどうかの選択が許されているのだ」と、日本人であり続け、アメリカでは外国人労働者という立場を変えるつもりはどうもなさそうです。
-…つづく
第687回:自分の性別を選べる?時代
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