第30回:“天才贋作画家” エルミア・デ・ホーリー 1
『カサ・デ・バンブー』の開店パーティーの時、白髪の初老から老齢にかけての男が台所の中、カウンターの後ろまで入ってきて、自分がこのパーティーを主催しているかのように振る舞い、とても邪魔だったことがあった。私は彼をピンチヒッターとして来てもらったイビセンカ(イビサの女性)の父親だと思っていたし、彼女らは私の古い友人だと信じ込んでいたのだ。
パーティーが終わった後で、あの爺さんは誰だ…ということになった。こんな時、情報通でゴシップ記者のギュンターに訊くしかない。
「あれは、有名な贋作画家のエルミアだぞ。崖の上のラ・フォリャ邸に住んでいる大金持ちで、丁度、刑務所から出てきたばかりだ…云々」という子細に渡る内情を披露してくれたのだ。

エルミア・デ・ホーリー(Elmyr de Hory;映画『Fake』より転載)1974年撮影
一度、そのエルミア爺さんが、子供のカクレンボで鬼から逃げるように『カサ・デ・バンブー』にバタバタと入ってきたことがあった。悲鳴に近い嬌声を上げながら、台所に駆け込んできたのだ。『カサ・デ・バンブー』は、テラスに面した正面カウンターを回り、中に入ると台所、洗い場に行き当たり、そこにある勝手口のドアを通じて、裏へ抜けることができるような造りになっていた。
エルミア爺さんはそんな台所の勝手口のことまで知っていたから、私の前の代、マルキータさんが店をやっていた時から、この地所をよく知っていたのだろう、エルミア爺さんは裏口から抜け出て、一旦海岸に降り、陸軍病院の坂道を登って行ったのだ。
そのすぐ後に、アラブ的風貌を持った細身のフランス人が、「エルミアを見なかったか? どこに行ったんだ」と、フランス訛りの強いスペイン語で叫びながら駆け込んできたのだ。その時、私はこの男の顔は見知っていたけど、彼の名が“ルグロ”(フェルナン・ルグロ;画商)だと知ったのはシーズンオフになってからのことだった。
ユーゴスラヴィア人同士がツルミたがることは書いたが、これは何もユーゴスラヴィア人に限ったことではなく、どこの国の人も、自国の言葉で会話を交わせる気楽さからか、小さなサークルをつくる傾向がある。ハンガリー人も例外でなく、元男性バレリーノがやっている旧市街のハンガリー小料理屋が溜まり場になっていた。
体操の選手のような素晴らしい筋肉質の上半身を持った小男で、壁にベタベタと貼り付けた全盛期の写真を見ると、相当なバレリーノだったことが伺える。彼の自慢はエリザベス・テイラーとの写真で、なるほど、太り出す前、水もシタタル絶世の美女だった頃のエリザベス・テイラーと一緒に、まるで恋人同士のように収まっているのだ。
このハンガリー小料理屋でエルミア、彼の愛人ルグロとも何度か顔を合わせ、エルミアがハンガリー人であることを知ったのだ。この元バレーリーノは無類の話好きで、英語が達者だった。
以下の話は、彼から仕入れたものの請け売りだが、念のためウィキペディアなどで裏を取った。
エルミア・デ・ホーリー、イビサを愛した男の物語
エルミア・デ・ホーリー(Elmyr de Hory)は、ユダヤ系ハンガリー人で父親は外交官、母親は銀行家の家系だから、非常に豊かで贅沢な環境で育ったのだろう。絵はミュンヘンのハイマン美術学校とその後パリのグランド・ショミエール美術学校に入っている。17、8歳の頃から、ホモセクシャルな傾向が顕著になり、フランス留学時代に決定的なホモになったと言われている。
ナチスドイツの時代にユダヤ人として強制収容所に入れられ、厳しい暴行を受けたのは確実だ。ユダヤ人でしかもホモセクシャルとなると、ナチスがもっとも嫌い、軽蔑する対象だったから辛酸な拷問を受けたに違いない。
戦後、ハンガリーに舞い戻ったが、両親は殺され、当然、全財産は没収されていた。エルミアの絵がどの程度のものであったか分からない。戦後の混乱期に手っ取り早い金儲けとしてピカソの贋作を描いたのが贋作のデヴュー、最初で、それをイギリス人の知人が何の疑いも挟まずに買ったのに味を占めた。
エルミアの貴族的雰囲気で、彼が引き次いだ財産の中にこんな絵があったと言っても、誰も疑わなかったのだろう。彼が余程金に困っていたのは事実としても、彼は贅沢な暮らしに浪費し、幾らお金があってもそれで充分ということはなかった。
1947年にエルミアはアメリカに移り、ニューヨークで画家仲間と個展を開いているから、自分本来の絵でマジメな絵描きになろうとしてはいたのだろう。
一度、贋作という麻薬を吸い、味わった彼は、また容易な金儲け、贋作描きになったのだ。エルミアは生涯に1,000点以上の贋作を描きまくったと言われている。最初の頃はお金になる油彩の贋作を描いていたが、バレたことが再三あり、デッサン、リトグラフなどに切り替えていく。これも腕を上げ、対象にした画家が生きていた時代の、大型の本を買い入れ、何も印刷されていない白紙のページを切り取り、その時代物の紙を使って贋作をモノにしたりしている。鉛筆、インクもその時代のものを使い、技術向上を目指しているのだ。

イビサ、ラ・フォリャ邸で撮影されたエルミア
エルミアの得意は、マチス、モリディリアーニ、ピカソ、ルノワール、ヂュラン、デュホーなどで、日本の国立西洋美術館もエルミアの贋作を3点購入している。
当時の国立西洋美術館の事業課長、嘉門安雄氏は、国会で「真作に間違いない」と証言までしている。その後、館長の富永惣一氏も鑑定書を盾に真作であるとし、突っぱねたのだ。しかし、その鑑定書なるものがニセモノである可能性が高いことが分かり、1964年に総額2,547万円の大金を払ったエルミアの贋作は、1971年になってやっと公開を取り止め、お蔵入りしたのだった。
この事件で分かるように、絵を見る目が肥えているはずのプロでも、いとも簡単にエルミアの贋作に騙されている。絵画の世界では、自分の目で見て、価値判断することがいかに難しく、ほとんど不可能であり、贋作を描くことがいかに容易であり、その上、鑑定書なるものの偽作も簡単に作れることが分かる。
プロと言われる人でも、鑑定書に目を眩まされる。基本的には、新興宗教団体が二束三文の壷にオスミツキを付け、何百万、何千万で信者に買わせる商法と変わらないのだ。
国立西洋美術館でも、エルミアの描いた贋作として、作品を公開すべきだと思うのだが…。
-…つづく
第31回:“天才贋作画家” エルミア・デ・ホーリー 2
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