狭山湖周辺の桜は散り始めていた。関東の桜の見頃は終わってしまったのだろうか。しかし望みはある。西武線各駅のポスターによると、秩父の羊山公園で芝桜が咲いているらしい。秩父は桜の名所が多いらしく、この時期は西武鉄道も臨時特急を走らせている。
西武狭山線は西武球場前から西所沢までたった2駅だ。西所沢から秩父方面に向かいたいけれど、池袋方面にひと駅乗り、所沢で折り返す。なぜなら、秩父まで直通する列車は快速急行か特急だけで、これらの優等列車は西所沢に停まらないからだ。各駅停車で行ってもいいけれど、途中で優等列車に追い越されるとおもしろくない。それがレッドアロー号ならなおさらだ。今日の旅で西武鉄道は完乗し、当分訪れることもないから、ぜひ看板列車に乗りたい。
所沢に着くと、秩父方面の快速急行が発車するところだった。特急の時刻が気になるが、快速急行という名前は速そうだ。特急に追い越されることなく、秩父まで逃げ切るかもしれない。それなら乗ってしまったほうが日程の都合がいい。それを調べるには、やっぱり時刻表を入手してくるべきだった。携帯電話でも調べられるけれど、表示が遅いし、最短ルートを表示するだけだから、途中駅の追い越しはわかりにくい。仕方なく通勤タイプの電車に乗った。
ところが発車後の車内放送によると、この電車は途中の駅で特急に抜かれるそうだ。発車前に駅の放送で知らせてくれたらいいのにと、恨みながら停車駅案内図を見上げる。特急は入間市駅に停車するので、そこで乗り換えると決めた。優等列車に乗らずに鉄道会社を語ってはならぬ。短時間でもレッドアローに乗りたい。
車窓には航空自衛隊の入間基地が見える。緑色の明細塗装に赤い丸を描いた輸送機が駐まり、質素で整った建物が並んでいる。自衛隊が日曜日に休むとは思えないけれど、人影はない。いま、イラクに仲間が駐留しているし、日本人が誘拐されたという報もあった。静かだが、フェンスの向こうの人々は穏やかではないだろう。
入間市駅はホーム3面、線路4本の立派な構えだ。コンクリートがあまり汚れていないので、新しい駅になったのだろう。入間市は狭山茶の中心地だが、全産業のうち農業は1パーセント程度で、ベッドタウンとしての開発が進んでいる。池袋までは快速急行で約40分。人口は約15万人。わずかだが増加傾向にあるという。
駅ビルには飲食店も入っていた。腹が空いたのでハンバーガーショップで何か食べようと思ったが、店は開いているのに店員が奥から出てこない。特急の発車時間が気になるので、あきらめて窓口で座席指定券を買う。係員が池袋行きのキップを作ろうとするので、秩父行きだと告げた。ここから特急で秩父に向かう人は少ないのかもしれない。所要時間は快速急行で1時間、特急で45分で、15分しか違わない。特急料金は410円で乗車券とほぼ同じ金額である。
西武鉄道の看板列車に乗る。
通勤電車からリクライニングシートの特急に乗り換えた。窓が大きくなったので視界が広くなる。景色は相変わらずの住宅地で変わり映えしない。けれど、防音に配慮した特急車両だから気分がいい。車内も行楽客が多く華やかになった。通勤電車は防虫剤の香りがしたけれど、いまはお菓子の甘い香りがする。腹が減る。
西武池袋線は飯能で運行形態が変わる。池袋発の列車はほとんど飯能止まりで、特急をのぞくと飯能から先は30分に1本の各駅停車があるだけだ。線路も飯能で行き止まりになっていて、我がレッドアロー号はここで進行方向を逆転し、秩父方面に分岐する。私はシートを回転させて進行方向に向けた。それを見て、何人かがシートを回転させている。前の席の主が戸惑っているので手伝う。
東京の南側に住んでいると、行楽地といえば箱根、伊豆、房総あたりに馴染み、北側は日光あたりを思い浮かべる。私にとって秩父は地味な印象だったから、西武池袋線、秩父線の車窓にはあまり期待しなかった。しかし、飯能から先の車窓はかなりおもしろい。
急カーブが続き、私の席から4両先の先頭車が見える。曲線区間が多いから、車窓もめまぐるしく変化する。林を抜け、田畑や民家を見下ろし、トンネルに入る。これを短い間隔で繰り返す。トンネルや急カーブも連続して、かなり苦労して敷設した路線だと想像できる。だからこそ車窓がおもしろい。正丸峠を貫く長いトンネルがあり、あとで調べると全長は4.8キロもあった。予想以上に地形の起伏が激しい山岳路線である。
眼下を国道299号線が寄り添い、離れていく。アメリカンバイクが行列して走っている。見渡す限りつながっているから、かなりの台数だ。今日は天気もよく、風が涼しくて心地よい。こんな日はバイクで出かけるには最良だと思う。
ツーリングする人々と併走する。
西武秩父線は秩父への観光だけではなく、セメント輸送という貨物需要があった。秩父セメントで知られるように、このあたりは石灰岩の山が多い。コンクリートは都市の発展に欠かせない材料だから、鉄道に投資する価値もあったのだろう。途中には、かつて石灰石を積み出した場所と思われる大きな貨物ヤードがあった。電気機関車も置いてある。西武鉄道の貨物輸送は1996年に終了しているが、機関車は現役のようで、車体もきれいだ。
標高は上がっているはずだが、散在する桜の木を見る限り、ソメイヨシノは散り始めている。わずかに八重桜がピンク色を際だたせている程度だ。やはり桜の時期は過ぎてしまったようだ。列車が勾配を下り、やがてゆっくりと西武秩父駅に到着した。
レッドアローを降り、いちど大きく深呼吸し、背伸びをしてから改札を出ると、羊山公園の手書きの地図が掲げられていた。右へ行くと急坂の近道、左へ行くと遠回りだがなだらかな道。左ルートの途中には若山牧水にゆかりの滝もあるという。
牧水の滝。きれいだが人工物であった。
時間を気にしない旅だから、私は左の遠回りの道を選んだ。路地のような細い道を歩き続けると若山牧水の滝がある。しかしそれは公園を整備する際に作られた人工物で有り難くはない。どうも今日は期待を外されてばかりいる。丘の上の桜も緑がかっていた。
芝桜も大したことはないだろうと、花びらの舞う道を歩いていく。すると突然、眼下にピンクの絨毯が広がった。案内所では5分咲きといっていたが、広場を埋める花の色が見事だ。芝桜はハナシノブ科の花の総称のようで、ここには10種類が植えられている。
桜の木は1本だけでも様になるが、芝桜は広いところに敷き詰められた様子が見事だ。こういう眺めは滅多にお目にかかれない。座ってしまっては広がりが楽しめないので、立って眺める。このスタイルは酒飲みには馴染みにくいものだろう。ソメイヨシノの下は宴会が始まっているが、こちらの人々は静かに佇んでいた。
咲き広がる芝桜。向こうの山は石灰石を産出する武甲山。
-…つづく
■第51回~52回の行程図
(GIFファイル)