鏡のような湖面に波が立つように、静かな駅に気配が立った。ホームに入ると上り列車が通過しくところだ。4両編成で、前後は黄色いディーゼルカー、挟まれた中間の2両は吹きさらしである。名物のトロッコ列車だ。トロッコ車両の1両に親子連れがふた組乗っており、隣の1両に客の姿はなかった。観光客が少ないと思ったが、今日は月曜日。週末は混み合うに違いない。そうであって欲しい。なにしろあのトロッコ列車は雲仙火砕流被害からの復興の象徴だから。
トロッコ列車が通過していく。
1990年から約5年にわたり、島原半島の中心にあたる雲仙普賢岳付近が噴火した。漫画に描かれるような天に立ち上る噴火ではなく、噴火口から露出した粘度の高い溶岩が火口を塞ぎ、ドーム状に膨れ上がって破裂した。その勢いは空に向かわず、火砕流となって地を駆け下りた。水無川を伝い、火砕流は低地へ向かう。周辺のあらゆるものが熱いうねりに流された。鉄道線路も例外ではなく、島原鉄道は長い運休を強いられた。再整備が進み、高架路線として復旧した年は1997年。島原鉄道の運行は地域の復旧の総仕上げだった。
トロッコ列車は地元観光産業再興の立役者だ。運行区間は島原-深江間と短いが、被災した区間がそこに含まれる。被災することは普賢岳にもっとも近いことの証明であり、雲仙への眺望を楽しめる区間だといえる。しかし、その運行も今年で終わりだ。復興区間を含む島原外港から南半分が来年春に廃止されるからである。せっかく鉄道が復活したけれど、乗客は減る一方だったようだ。ならば被災したときに廃止してもよかった。しかし、自然に屈して撤退することと、検討を重ねた上で止めることには大きな差がある。あの時、鉄道を復旧することは、列車を走らせる以上の価値があった。10年間、鉄道は人々のプライドを載せて走っていたとも言えるだろう。
高架線を行く。
南島原発10時54分発の加津佐行きに乗って先に進む。次は島原外港で、この駅が存廃の境界である。島原鉄道は車庫のある南島原で打ち切りにしたかったけれど、地元の要請を受けて島原外港まで残した。島原外港からは大牟田や熊本へ向かう船便がある。島原から博多までは、諌早経由でJR特急に乗り継ぐよりも、船で三池港へ行き、大牟田から西鉄特急に乗ったほうが早くて安い。そんな地元の人々への配慮のほかに、島原の回遊ルートを確保する意味もあるのだろう。三池行きの船も島原鉄道の運行だから異論はなかったと思われる。
島原外港を発車するとき、私は居住まいを正した。ここから先は廃止される区間だ。二度と通れない線路である。しかも火砕流の被害を受けたところである。線路は新しい高架線路になっており、街並みが見渡せる。戸建ての新しい家がずらりと並び、道路に描かれた白線でさえも新しく感じられる。区画整理をして被災した人々が移ってきた地域なのだろうか。これだけの人がいれば鉄道を残したくなる気持ちもわかる。もっとも、車を使う人のほうが多そうだけれど。
新しい鉄橋と道路橋。
前方を眺めると新しい鉄橋が見えてくる。安新大橋と書いた立派なトラス橋である。並行する道路のほうはアーチ橋がかかっている。このあたりがもっとも被害が大きかったのだろうと予想する。次の鉄橋には水無川橋梁という文字を見つけた。普賢岳噴火のおかげで全国的に有名になった水無川である。水のない川に火が流れた。昔も同様のことがあり、火山流の通り道として水無川と呼んだのかもしれない。こんなに立派な路盤や鉄橋を作ったというのに廃止とはもったいない。雲仙岳方向の見晴らしも良いから、線路を残して手漕ぎトロッコなどのアトラクショにしたら楽しめそうである。震災の記憶も防災のために残しておくべきだが、新しい楽しみを見つけることも大切だ。
雲仙岳が見えた。
高架線路を降りれば畑が広がる。作物が青々と育っている。遠くに見える雲仙岳の山頂はなだらかな優しいカーブを描いており、台地を見守る姿のように見えた。災害があったことなど忘れそうなほど豊かな台地である。もっとも、線路際の畑は広く真四角でよく整っており、機械で整地したような雰囲気だ。その整然とした光景は干拓地の畑を連想する。復興のときに区画を整理したのかもしれない。
深江を過ぎると線路は海に近づく。車内に潮の香りが漂う。島原鉄道の赤字の大部分が南島原から終点の加津佐までの区間に集中しているという。人が乗らない区間と聞き、どんなに鄙びたところかと思っていたけれど、海に近い平地だから人家は多く、畑も作物が育っている。各駅ごとに数人の乗降があるけれど、片道10本に満たない本数しか走らないから、一日辺りの乗降客としては少なすぎる。沿線にこれだけ人がいても鉄道に乗ってくれないという状況でもあるわけで、鉄道の経営者が廃止したくなる気持ちも少しは理解できる。
整然とした畑。
沿線には廃止反対の文字もなく、まだ廃止まで10ヶ月もあるというのに列車を撮影するカメラマンがひとり。気の早いことだと思うけれど、自分を省みれば、私も気の早いお別れ乗車の身である。左に島原湾、右に畑を眺めながら、列車は加津佐を目指している。廃止される予定の線路は口之津鉄道が前身で、大正11(1922)年に南島原と同崎までが開業し、その後着々と路線を延ばして昭和3(1928)年に加津佐まで全通させた。その後島原鉄道と合併して今日に至っている。民間資本で鉄道を延伸していく。それは島原だけではなく、日本の隅々にそれだけの活力があったということだ。
深江駅に復興記念の展示があった。
島原鉄道はこの路線を切り離して生き残ろうとしている。尻尾を切って窮地を脱するトカゲに似ているが、トカゲの尻尾はまた生えてくる。廃線は永遠に廃線のままだろう。もし、廃線がトカゲの尻尾のように復活するとしたら、それはどんな社会なのだろう。日本の隅々まで人が往来し、町や村に活気が戻り、道路は渋滞し、鉄道が見直される。旅客列車や貨物列車に人やモノが集まる。それが国の活力の有り様だと思うのだが、そんな日はもう来ないのだろうか。大都市に人を集中ざせて、田舎は自然に帰していく。そのほうが地球のためなのだろうか。とりとめのないことを、私はぼんやりと考えていた。
海沿いを走る。
-…つづく
第212回以降の行程図
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