第183回:流行り歌に寄せて ~序章~
「私は歌謡曲のファンです」
店では、お客さんに「マスターの好きな音楽ってどんなの?」と聞かれることがよくある。いつも、即座にお答えするのがこの言葉である。
私の店は普段はずっとモダンジャズの有線を流しているので、相手は一瞬怪訝そうな顔をされるが、「実はお客さんがいらっしゃらなくなると、すぐに歌謡曲のチャンネルに変えてしまうんですよ。お客さんが入ってこられた瞬間には、またチャンネルを戻しますが」と説明をすると、「あなた、本当に好きなんだなあ」というふうに納得をしてくださる。
ジャズは少なからず聴く方だし、他のジャンルの音楽もあまり隔たりなく聴くが、「やっぱり歌謡曲が好き」なのである。
以前、私の店のホームページで、『私の好きな、この女性ヴォーカル・この一曲』というタイトルで、思いつくままに 1.天地真理「想い出のセレナーデ」 2.ジリオラ・チンクエッティ「薔薇のことづけ」 3.都はるみ「大阪しぐれ」…と綴っていき、220人、220曲まで列記したことがある。
それを見てみても、いわゆる洋楽は40曲足らず、後の180曲あまりはニューミュージックなどを含む日本の歌謡曲だった。
さて、その歌謡曲の中でも大変にヒットしたことを表す「流行歌」という言葉が以前は存在していて、男女を問わず、幅の広い世代の多くの人たちに愛される歌というものが確かにあった。もう長いことこの言葉は聞かないし、おそらくこれからも流行歌と呼ばれる歌は出てこないだろう。
私は大雑把な言い方になるが、昭和56年に大ヒットした寺尾聰の「ルビーの指環」あたりか、それから精々3、4年は生き延びたが、昭和50年代の終わりとともに、流行歌という言葉は消えていったのではないかと思うのである。
あのTBSの歌謡番組『ザ・ベストテン』、黒柳徹子と久米宏が二人で司会をしていたのは昭和60年4月までと言うことで、それ以降、男性司会者は順次変わっていくことになる。あの初代の名物コンビが解散した時期と、流行歌の終焉は、ほぼ時を同じくしている。
老若男女に愛されると言うことは、彼らが一緒にその歌を聴いていた、つまりテレビを観ていた時代と言うことにも繋がる。茶の間に、その家に一台だけのテレビ、玄関口に、その家に一台だけの電話。おじいさん、おばあさんはまだ明治生まれ。昭和50年代までの一般的な家庭の風景だったのだ。
「今年の紅白は誰が出るの?」「レコード大賞は誰が獲るのかな?」、そんな話が家族間の話題に上るのも、この時期までのことだった。現に昭和60年代以降のレコード大賞には、流行歌と呼べる歌は存在しないと、私は思う。
それぞれの部屋にテレビと電話の子機が入るようになってくれば、家族一人ひとりの興味、嗜好が分散していくのは当然のことだろう。
ところで、最近、もう一度大真面目に流行歌について考えて、それについていろいろと書いてみたいという思いが強くなった。先日、お電話でこのコラムの編集長にご相談したところ、了解をいただいたので、次回から連載を始めてみたいと思う。
どのような形にしようか、いろいろ考えた割には工夫がないのだが、やはり年代順に書き進めていこうと思う。戦前、戦中の流行歌の多くも知っていることは知っているが、さて、どんな思い入れがあるかと考えると、かなり心許ないので、戦後昭和21年からの流行歌について触れていくことにする。
私は昭和31年1月の生まれであるから、生まれる10年前の歌からと言うことになる。当然、リアルタイムに聴いているわけではないが、小さい頃、父母や叔父伯母が口ずさんでいる歌も多く、自分なりの思いを何とか書けそうである。
タイトルは、『流行り歌に寄せて』。昭和21年から始まって、前述の通り昭和50年代の終わりまで、1年につき2曲、ないしは3曲を選んで少し語ってみたい。文章の長さについては、その思い入れによって長くなったり短くなったりすることをお許しいただきたい。
また、番外編というか、それほど流行らなかった歌謡曲でも、この歌についてはぜひ書いてみたいというのが間違いなく出てきてしまうので、『それなりの流行り歌に寄せて』というものが時々登場することも、ご承知おきいただきたいと思う。
日頃、なかなかネタを捻出するのが難しいため「『困ったときのシリーズ化』をまた始めたな」とお笑いいただくのは覚悟の上で、少しは面白いものを書いてみたいと考えている。よろしかったら、ぜひお付き合いください。
-…つづく
第184回:流行り歌に寄せて
No.1 「リンゴの唄」~昭和21年(1946年)
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