■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”.
第2回: Save the Last Pass for Me.
第3回:Chim chim cherry.
第4回:Smoke Doesn't Get in My Eyes.
第5回:"T" For Two.
~私の「ジュリーとショーケン」考 (1)

第6回:"T" For Two.
~私の「ジュリーとショーケン」考 (2)

第7回:Blessed are the peacemakers.
-終戦記念日に寄せて-

第8回:Ting Ting Rider
~マイルドで行こう

第9回:One-Eyed Jacks
~石眼さんのこと

第10回:Is liquor tears, or a sigh?
~心の憂さの捨てどころ

第11回:Hip, hip, hurrah!
~もうひとつのフットボールW杯開幕


■更新予定日:隔週木曜日

第12回:Missin’ On The Phone ~私の電話履歴

更新日2003/10/23


私は、携帯電話を持っていない。今までにも持ったことがない。最近では「ケイタイの番号は?」と聞かれて、「いや、持ってないんですよ」と答えると、相手に一瞬戸惑ったような表情をされる。

何かポリシーがあって持たないわけではないのだ。私は、だいたいの時間、自宅にいるか店にいて、その他は往復約1時間の自転車による移動時間で、必要を感じないだけ。それでも「人並み」に持ってみようかと考えることもあるが、今さら持ち出すと「マスター、なんかよからぬ事考えてるんじゃないの?」「ケイタイじゃなければ話せない人でもできたの?」といらぬ詮索をされるのが落ちだ。

けして電話嫌いではなく、割合に人と電話で話すのは好きな方だと思う。顔を見ると言いにくいことも電話では言えることもあって、これは善し悪しだが、相手を傷つける内容でなければ、そこら辺のところは重宝に使ってもいい気がする。

私が初めて電話と出会ったのは小学校に入るかそれ以前の頃、長野県富士見町の父方の実家にあった、みんなに「有線」と呼ばれている電話だった。これは電話の通話機能とともに、地域内の情報伝達機能も備えた、今考えるとなかなかの優れものだった。

例えば、朝6時頃には、「おはようございます。今日は一日晴天が続くので苗代の準備に入るには適した日でしょう。野菜の種は・・・」などという町役場からの放送が、その有線電話のスピーカー部から聞こえてくる。

電話機にはダイヤルがなく、受話器を挙げて交換手にかけたい家の番号を告げると、先方の電話のスピーカーで、例えば「13番さん、13番さん」と呼び出し、それを受けると会話が始まるという仕組みだ。先日確認すると、だいぶ形態は変わったが、今でもその有線電話は活躍しているらしい。

家に電話が入る前の中学3年生の頃、その地域にも有線電話(これは通話機能のみだったが)というものがあって、当時の私のガールフレンドの家にも普通の電話はなく、有線が置かれていた。この有線は、交換手を通せば一般の公衆電話からもかけられる仕組みになっていて、私はときどき彼女に電話をしていた。

ある時電話で、「やっぱりサッちゃんが一番好きだって事に気がついたんだよ」「嘘ばっかり」「本当だってば」としきりにかき口説いていると、突然、「すみません。次の方がお待ちなので、そろそろ電話を切ってください」という交換手の声が聞こえてきた。

「はあ?」と聞き返すと、「有線は一回線しかないから、一組しか話せないんです。あまり長電話をされると他の方に迷惑です。それに、あなたたち中学生ぐらいでしょう」と諭すように言われた。その時、自分の口説き文句が、全部その交換手の女性に聞かれている事に気づいた。

どうしようもなく恥ずかしくて、その日の夜は眠れなかった。その日以来、ガールフレンドとも、どことなく気まずくなり、だんだんと距離を置くようになっていった。

昭和49年に高校を卒業して上京し、初めて住んだアパートは大家さんの呼び出し電話だった。そう言えば、今でも履歴書の電話番号の項目に「呼び出し」の記載はあるだろうか。当時は、呼び出し電話が一般的で、私もよく「二階のお兄ちゃん(大家さんにそう呼ばれていた)、ご実家からお電話が入っているわよ~」などと取り次いでいただいたものだ。

翌年移り住んだ次のアパートにあったのは、いわゆるピンク電話と言われるもので、電話番号を持ち、受信も可能な公衆電話だった。これが、一階の玄関先に置いてあって、ベルが鳴ってしばらく誰も出る気配がないと、二階の奥の方の部屋の私は急いで走って階段を駆け下り受話器を取った。

12部屋あるアパートなので、当然のことながらたいがいは私宛の電話ではなく、例えば二階の住人宛なら、また急いで二階に駆け上がり戸を叩いて呼び出すが、これがまたたいがいが留守で、再び急いで駆け下りて、不在の旨を伝える。すると、そっけなく「あっ、そう」などと言ってガチャンと切られたときには、かなりストレスがたまった。

当時のピンク電話は10円玉しか受け付けず、その頃今で言う遠距離恋愛をしていた私は、100円玉を20枚くらいジャラジャラと持ち、アパートから200メートルくらい離れた、小高い坂を上り下りしたところにある黄色い公衆電話ボックスで電話をかけた。

彼女とは、年に2、3回しか会えなかった。今もそうだが、新幹線は当時の私にはとても高価な乗物だった。電話代は、今よりはるかに高かった。一週間に一回電話できればいい方だった。かなりのスピードで落ちていく100円玉の音を気にしつつ、少しでも長く彼女と話していたかった。あの頃は、受話器から聞こえる呼び出し音にさえドキドキしていた。

私の住まいに電話が入ったのは、大学を卒業して上京してきた妹と一緒に風呂つきのアパートに住むようになった年で、昭和57年のこと。私は、上京以来8年間、銭湯と公衆電話を利用していたことになる。

最近は、携帯電話の普及でめっきり公衆電話の数が減ってしまった。これも時の流れで仕方ないかも知れないが、携帯電話を持たないものにとってはかなり不便だし、長い間公衆電話に愛着のあるものとしては、とても淋しい気がする。

携帯電話については、よく「ケイタイ依存症」のようになって始終操作している人を見かけると、ちょっとどうかなと思うこともあるが、議論が繰り返されるマナーのことも含めて、あまり批判するつもりはない。少しずつ落ち着いていくことだと思う。

ただ、恋愛事情は変わったんだろうな、と思う。彼女の家にかけるとき、「ちょっと遅すぎるかな。お母さんやお姉さんが出たらどうしよう。お父さんだったら最悪だな」と思いながら呼び出し音を聞く気持ち。そんなことは、何時でも何回でも、彼女と直接通話やメールのできる今の若い男の子には想像もつかないだろう。

「あれはあれでスリルがあってよかったんだけどな」と、おじさんは述懐するのだが。

 

 

第13回:Smile Me A River ~傍観的川好きの記


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