第519回:iPhone災禍~“ミー・ファースト”の精神
携帯電話が出回り始めた時、使い方のマナーがとり沙汰されました。他の人のいる場所では席を外すとか、こちらから後ほど掛け直すよう伝えるとか、食卓では電源を切るとか…言われたものです。
自分の時間をどのように使おうが、それは本人の問題ですから、他の人がどうこう言うのはスジ違いです。ですが、食卓や団欒の最中に一人が携帯で話し始めると、他の人たちが通話の邪魔をしないように声をひそめたり、今までの団欒を中断しなければならないのは、どう考えても間違っています。携帯がこちらの時間まで食べてしまうようになっては、黙っているわけにはいきません。
実家に帰り、食卓を囲み、久しぶりに家族揃って団欒の時を持っているのに、他所からの電話ではなく、iPhoneを手にして、そのオモチャ相手に自分の世界に浸るのが当たり前になってきたのです。甥っ子たちだけでなく、50歳を過ぎた私の妹までが、私たちとの会話より、iPhone、iPadで小さなスクリーンをイジクるのには、あきれ果てて、注意する気にもなりません。iPhone、iPadを食卓や団欒の場で使うのは最悪のテーブルマナーです。
ところが、あの種の玩具は中毒性があるらしく、一度嵌り込むと、抜け出すことができないようなのです。
私たちがチマチマと資金を作り、バッハ音楽祭に出かていることは以前書きましたが、ここ数年、観客に大きな変化が現れました。私たち以外、まず100%近くの人が持っている、iPhone、iPadで写真を撮る人が異常に増えたのです。あんなオモチャは子供の玩具と思いきや、iPhone、iPadの波は老人層も呑み込み、猫も杓子も現代の利器を使って写真を撮り、録音しているのです。
演奏前、演奏後、それは見事なくらい皆が皆、iPhoneを上にかざし、写真を撮るのです。演奏後の拍手にも大いに影響します。iPhoneをカメラにして頭の上にかざす人が大半ですから、割れるような拍手がなくなってきたのです。
それはいいとしても、演奏中にiPhoneで撮影する人が常に幾人か現れ始めました。あのような器具は撮影する方の側にかなり明るい映像が映し出されますから、その人の後ろにいる何十人かの目に映像と光が差し込むことなります。これは音楽の感動を著しく損ねます。大迷惑です。それを孫が4、5人いそうな爺さん、婆さんたちがやるのです。
これから将来のコンサートはどうなるのだろうと悲観的になろうというものです。いっそのこと、飛行場でのセキュリティ・チェックのように、会場に入る前に、すべて取り上げてしまう方がすっきりすると思ったりします。私たちの古くからの友人の家(日本です)では玄関に、“この家の中では携帯、iPhoneなどの使用を禁止します”と、はっきり掲示しています。良いことです。
建築を学ぶ学生の半数にカメラを持たせ、あとの半分はカメラなしで、ある建物を見せ、後でその建物の詳細を質問状にしてテストしたところ、圧倒的にカメラなしでじっくり見た学生さんの点が高かったという調査を…具体的にどこの大学のなんという調査だったか思い出せないのですが、読んで、鮮明な印象を受けました。これが建築でのことです。
ましてや、音楽会で写真を撮ることに、一体どんな意味があるのでしょうか? 音楽の感動は耳を通じて体内に入り、全身を震わせるものです。ショーではないのです。その意味で、教会の音楽は演奏席が2階にあり、しかも参列者は祭壇の方を向いていますから、音楽は頭の後ろ側で演奏され、反響した音を聞くことなり、演奏者の姿を全く見ることができません。 少なくとも、教会音楽はヴィジュアルなショー的要素が全くありません。それが良くて、好きでノコノコ、ドイツまで出かけているのです。音楽会で写真を撮る人たちは、カメラのフェンダーの中でしかモノを視ず、ただシャッターを押しまくり、建物そのものを良く観察しなかった建築の学生さんたちのように、音楽そのものを聴いて感動する心を忘れているのかもしれませんね。
それに、他の人の迷惑を考えない、“ミー・ファースト”(自分だけよければよい)精神がはびこってきたのでしょうね。どこかの国の大統領も“アメリカ・ファースト”(まず第一に、何を措いてもアメリカ)を唱えた人が選ばれてしまいましたが…。
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