第599回:南風13号の女 - 鉄道ホビートレイン -
ダブルコートの女性が気になる。美しい人である。ひとり旅の様子である。どこへ行くのかと思う。しかし付きまとえば不審人物である。変態である。犯罪者である。その分別があるうちに彼女から逃げよう。私は彼女より先に駅舎を出た。
江川崎駅
江川崎は山の中の小さな駅で、旅客扱い上は無人駅だ。しかし、朝に2本の始発列車を出すために、最終列車が2本到着する。だから構内に留置線がある。無人駅だけど、駅舎に向かって左手に事務室が付属するようで、2階建ての建物が連なる。エアコンの室外機がいくつか見える。最終列車と始発列車の乗務員が宿泊する施設、保線係員の宿直もあるかもしれない。独身寮だとしたら寂しすぎる場所だけど、どうだろう。
その2階建てを眺めつつ、駅前の道を西へ向かって歩く。上り坂である。高いところからトロッコ列車の写真を撮れそうだな、と歩いて行くと、行き止まりになってしまった。その場で写真を撮って引き返す。駅舎の隣にログハウス風の建物がある。
その建物の前で小犬が鳴いている。近寄ると寄ってくる。シーズーだろうか。他人を疑うことを知らないらしく、人なつこい。しかし、飼い主さんの話では捨て子を引き取ったそうだ。良いパパに巡り会えて良かったな。しばらく遊ばせてもらった。この建物は観光案内所で、自転車を貸してくれるそうだ。
自転車を借りて見て回る時間はない。しかし、ちょっと散歩したい。四万十川を見に行こうか。車窓からずっと眺めていたら、もっと近くで見たくなった。次の列車まであと50分。スマートホンでタイマーを20分に設定して歩く。タイマーが鳴ったら引き返そう。往復で40分、折り返し地点で10分という配分であった。
広見川? 吉野川? 橋りょうを行く宇和島行き
坂道を降りていくと製材所があった。削りたての木の香りが清々しい。良い気分でさらに坂道を下っていく。相対的に線路が高くなっていき、鉄橋になった。さっき通った鉄橋である。第一吉野川橋りょうと書いてある。あれ、地図では広見川とあったけれど、吉野川か。いずれにしても四万十川ではない。この川に降りてはいけない。ちょうど列車が走ってきた。普通の気動車1両。トロッコを追うように走る宇和島行だ。
私も広見川? 吉野川? (しつこい)を渡る
スマートホンの地図を頼りに歩き、川下の小さな橋を渡る。広い道があり、江川崎のメインストリートにさしかかったようだ。四万十川の手前に駐車場がある。掃除をしていたおばさんに挨拶する。そこから川原まではキャンプ場になっているらしい。その敷地を横切った先を降りると四万十川である。
四万十川だ!
広い川原。これが四万十川か、ちょっと感動だ。水辺に行き、透明な水をすくってみた。冷たい。しかし気持ちいい。ジャブジャブと両手を洗う。なにか容器に入れようと思ったが、お茶を飲み終わったペットボトルは捨ててきてしまった。まあいいか。私は四万十川に触った。満足だ。
四万十川に触った!
来た道を戻る。さっきのことだけど、製材所の木の香りが懐かしい。そして江川崎の駅に着く。こんどの列車は窪川行きの鉄道ホビートレインだ。伊予宮野下駅ですれ違ったアイツである。窪川行きだから、ダンゴ鼻を前にしてやってきた。ダンゴ鼻の両側にヘッドライトが移設されていた。さっきはテールライトだった。その切り替わりは0系を上手に真似ている。夕刻にさしかかり、ヘッドライトが目立っていた。
トロッコからホビートレインに乗り戻るには、江川崎の先の松丸で折り返しても良かった。しかし江川崎で降りて正解だ。かわいい小犬と四万十川に触る時間ができた。そして、この正解を確信する出来事があった。なんと、あのダブルコートの女性がホームに現れた。あっ、と声を上げると、彼女も私に気づいたようだ。会釈してくれた。
鉄道ホビートレインで窪川へ戻る
私は思わず、握手しませんか、と話しかけた。はい、と手を差し出された。不審に思わないのだろうか。本当は西洋人かもしれない。考えるまでもなく、私は彼女の手を握った。柔らかく、あたたかい。しかし私の手は冷たく、少し濡れている。ますます怪しい。
「さっき四万十川に触ってきたんですよ。お裾分けです」
そう言うと、ああ、とつぶやいた。納得してくれたかもしれない。
ニセ新幹線こと鉄道ホビートレインに乗ると、もうひとつの出会いが待っていた。トロッコ列車のガイドのおばちゃんたちだ。松丸で業務が終わって折り返してきたという。1両の気動車は意外にも満員で、私たちは出入り口付近に立った。おばちゃんの解説によると、記念列車に乗った人たちが窪川に帰るそうだ。なるほど。
あっという間に窪川着
そんな会話の流れで、ダブルコートの美女と話もできた。握手という西洋式挨拶も済んでいるからうち解けつつある。彼女が江川崎に来た理由は「有名なケーキ屋さんがあるから」と言う。トロッコ列車の車中でそれを聞いていたら、私も楽しいお茶の時間になったかもしれない。彼女はひとり旅だった。今夜は中村に泊まるという。
おばちゃん、美女、私の会話は弾み、窪川までの1時間は短かった。私はまた予土線を折り返し、彼女は中村行きの特急に乗る。鉄道ホビートレインを降りて彼女は去って行く。私は乗客が引けた車内の写真を撮るために居残る。名残惜しいけれどサヨナラだ、と、思ったら、彼女が引き返してきた。えっ、まさか私に? 違った。彼女も車内の写真を撮りに来たらしい。
鉄道ホビートレインの車内
床には機関車の図面
私は鉄道ホビーを離れ、反対側のホームに向かった。床下を含めた写真を撮ろうと思ったからだ。そこでまた彼女に出会った。中村行き南風のホームはここではない。あれ、また会いましたね、と言うと、彼女は駅の記念スタンプを押してきたと教えてくれた。
「もしかして、最近はやりの鉄子さんですか」
「いえ、違います」
はっきり否定されてしまった。
いま、お世話になっている女性編集長といい、どうして鉄道好きの女性は鉄子を否定したがるのだろう。
壁には鉄道模型が飾られている
跨線橋の階段でお別れだ。彼女は先に階段を降りた。私は一つ先の階段である。鉄道ホビートレインが待っている。これで引き返す。ホームで佇んでいると、南風13号が到着した。これで本当に彼女とお別れだ。今度会ったら偶然ではない。運命だと思う。
ダンゴ鼻の裏側
-…つづく
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