第230回:流行り歌に寄せて 番外編1-2 ~昭和20年代を振り返って その2
前回は、主に作詞家、作曲家について触れたが、今回は歌手、曲名、そして、全体の流れについて書いていきたい。
昭和20年代の前半、西暦で言えば大雑把に1950年くらいまでは、男性歌手では、霧島昇、藤山一郎、灰田勝彦、女性歌手では菊池章子、笠置シズ子、二葉あき子ら、戦前から活躍していた歌い手たちが、複数回顔を出していた。
後半になると、男性では鶴田浩二、春日八郎、若原一郎、女性では美空、江利、雪村の三人娘、島倉千代子などの戦後デビュー組が登場してくる。
戦前から組は、男性は必ず軍歌を歌っており、男女を問わず全員が戦地などでの慰問活動の経験を持っている。一方、戦後デビュー組である、江利、雪村らは、デビュー前から進駐軍のキャンプ回りや進駐軍クラブに出演することが多かった。
敗戦を境に、今まで日本兵の前で歌を披露していた日本の歌手たちが、今度は昨日までの敵であった米兵の前で歌うことになる。時代が「グオン!」と大きな音を立てて方向転換をしていったのである。
全40曲のうち、男性歌手曲15曲、女性歌手曲20曲、男女のデュエット曲4曲、女性のコーラス曲1曲という構成になっているが、前回書いたように、これは飽くまで私の趣味趣向によって選んでいるので、実際に発売された男女比などとは違っているだろう。
次は曲名を見ていこうと思う。「戦後」を最も大きく感じさせるのは曲名に横文字が入ったものが多いこと。「ブギウギ」「ブルース」「ワルツ」などの音楽スタイルを始め、「ハワイ」「ミネソタ」「テネシー」などのアメリカの地名が入ったものが多く登場してくる。
一方、「東京」もがんばっている。『東京ブギウギ』『東京の屋根の下』『東京キッド』『銀座カンカン娘』『銀座の雀』などのタイトルが付けられ、当時は殊に日本中の憧れの都であったことがよく判る。
先ほど出てきた音楽スタイルについて、ブギウギは笠置シズ子が「ブギの女王」と呼ばれるように、このスタイルを最初は一人で牽引してきたのだろう。圧倒的な迫力を持つ世界観を彼女は持っていた。
ブルースについては、もう押しも押されもせぬ「ブルースの女王」淡谷のり子がいるが、そのほとんどの名ブルースが戦前のものであるため、掲載できなかったのは残念だった。せめて、昭和23年の『君忘れじのブルース』について書けていればと悔やまれるが、私にはあまり馴染みのない曲だったので遠慮した。
『夜霧のブルース』『午前二時のブルース』を取り上げたが、どちらも私の好みを代表するようなブルースで、これについて書けたのは幸せだった。
ワルツは、40曲のうち4曲と1割を占める。『テネシー・ワルツ』と『想い出のワルツ』は、もともとアメリカ産のものだが、『水色のワルツ』『ゲイシャ・ワルツ』は国産品。
殊に藤浦洸、高木東六コンビによる『水色のワルツ』は、ワルツ好きの私の中で、最も美しいと思えるワルツの一曲である。
さて、もう一つこの時代を反映していると思えるのが、挙げられた曲の多くが映画の主題歌、挿入歌として使われたり、あるいはその曲をテーマにいくつかの映画が作られたりしていると言うことだ。
日本映画の全盛期は、この次に来る昭和30年代だと言われているが、昭和20年代においても映画は、日本国民には最大の娯楽で、映画と流行り歌というのは、切っても切れない間柄だったと言える。
『リンゴの唄』が映画『そよかぜ』の挿入歌として、『夜霧のブルース』が映画『地獄の顔』の主題曲として使われたのを始め、今回の40曲のうち半数近くの19曲が映画に関わっているのである。
まさに "Popular songs and movies go hand in hand."という感じである。
戦争が終わり、人々は焦土から何とか立ち直ろうと励まし合う。しかし、その中で身を持ち崩してしまうものも少なからず出てくる。また、大陸などから大挙引き上げて来る兵士もいるが、帰って来られない者も多い。
敵国であった米国の文化が、堰を切ったように流入され、人々はそれに必死に順応していこうとする。その中心となる東京は活気づき、他の多くの地方の憧れの地となり、やがて就職などで夥しい数の人々が東京にやってくる。そして、故郷を思うようになる。
大変に大雑把ながら、昭和20年代はこのような流れの中で生まれたいくつかの事象を曲にして歌われたものが主だったように思う。
まさに「戦後」という時代の持つ様々な要素を、作詞家、作曲家たちは必死に描き取り、歌手たちが、それを人々に伝えていった。今回私は、何よりそのエネルギーをひしひしと感じながら、このコラムを書き続けてきたのだと思う。
-…つづく
第231回:流行り歌に寄せて
No.41 「ここに幸あり」~昭和31年(1956年)
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