第126回:ラグビー、外国人助っ人列伝(4)
更新日2008/08/28
日本にやって来た、何十人にも及ぶ外国人助っ人の中で、最もその存在感、実績において群を抜いているのは、ジョン・カーワン(John
James Patric Kirwan、以下敬愛の気持ちも込めてJK)、現ラグビー日本代表ヘッドコーチ(43歳)だろう。
彼は、昨年2007年の1月、外国人としては二人目の日本代表のヘッドコーチとなった。その前年の10月までは外国人としては初めてヘッドコーチに就任したものの、職務半ばでフランスに逃げ帰ってしまったジャン=ピエール・エリサルドという男がいた。彼の所為で日本代表は弱体化し、行く方向性を失っていた。
最も悪い条件の下、わずか8ヵ月弱の準備期間(実際にチームが指導したのが5月からなので、実期間は4ヵ月)しか持たなかったものの、9月から始まった昨年のラグビーW杯でカーワン・ジャパンは予選プールで終わったものの、実によい動きを見せた。
強国フィジーの自由奔放なラグビーを封じることにほぼ成功し、最終盤、相手を相手陣ゴール前に釘付けして4点差まで迫る接戦を演じた。その後決勝トーナメントに進んだフィジーが、準々決勝で優勝国南アフリカを徹底的に追い詰めたことを考えると、1トライで試合がひっくり返る点差の試合は大快挙と言える。
そして最終のカナダ戦では、驚くまでの粘りを見せて、最後の最後に同点に追いついた。そして、第3回W杯以来12試合続いたジャパンの連敗記録にピリオドとは言えないまでも、カンマを打つことはできたのである。
以前も書いたことだが、この試合後、国際映像に映し出された、フランカー渡辺泰憲を迎え入れるときのJKの優しい表情は忘れることができない。この瞬間を見ただけで、ヘッドコーチと選手たちの間の信頼関係の深さが伝わってくるのである。実に良い映像だった。
私がJKを初めて見たのは、1991年の第2回ラグビーW杯での映像だった。残念ながら、彼がオール・ブラックスの14番として歴史的な大暴れを見せ、トライ王となった第1回ラグビーW杯をリアルタイムでは観ていない。
第2回W杯は、オール・ブラックス自体が少し精彩を欠いていたのと、JKも第1回ほどの爆発力を持っていなかったため、「とんでもない奴だ」という印象はない。ただ、それまでは俊敏で、どちらかと言えば痩身な選手の多かったウイングというポジションに、とてつもない大男が入っているのだなあという感じがした。
そして、とてもやんちゃな、大雑把で粗野な印象が強く、はっきり言ってしまえば、傲慢で付き合いたくないタイプの外国人というイメージだった。ところが、その後彼が現役最後の場所として日本を選び、東日本社会人チームNECの選手としてプレーする姿を見て、それが大きな誤解だったことを知る。
1997年、あのカーワンが日本でプレーをすることを知り、それまであまり関心のなかったNECの試合を観に、私は秩父宮ラグビー場に何回か足を運んだ。彼は往年のスピードを持たなくなったために、ポジションをウイングからセンターに変えて出場していた。
そこで見せた彼のプレーは、まさに「For The Team」に徹していた。私のイメージしていた傲慢さなどというものは微塵も感じさせなかった。ボールを生かすために、地味で身体を張るプレーを試合の間中続けていた。そして、それがとても楽しそうだった。
彼はチームメイトとも実に気さくにお付き合いをし、よく酒も飲み交わしていた。殊に同じセンター・プレーヤーで玉川大学出身という異色のイケメン選手・川合レオ、そしてNECを文字通り牽引していく国際的プレーヤーでコーチでもある太田治あたりとは昵懇の間柄だったようだ。
後にジャパンのゼネラル・マネージャーになった太田氏が、JKをヘッドコーチとして招聘したのだが、その頃からすでに彼らの熱いラグビー談義は始まっていたのだろう。
JKは、97年、98年、99年度の3シーズンを日本でプレーして、多くのものを残してニュージーランドに帰っていった。私は2000年の春、彼がもう日本から離れてしまうという報を聞いたとき、とても寂しい気持ちになったことをはっきりと覚えている。もうそこまで彼のファンになっていたのだ。
その後しばらくは、ニュージーランド(以下NZ)の地元のチーム(スーパー14の名門)、オークランド・ブルーズでアシスタント・コーチとして活躍。北半球と南半球ではシーズンが反対となるため、NZのオフシーズンには日本のNECでチーム・アドバイザーもしていた。
2002年には夫人の故郷イタリア代表のヘッドコーチとなり、2003年のラグビーW杯では、前回の大会で勝利のなかったチームを2勝させ、ヨーロッパ6ヵ国対抗においても、イングランド、フランスなど強豪国を相手に好試合を演ずるまでにさせた。そしてチームの土台作りに大きな貢献を残しつつ、2005年までこのチームを率いた。
そして、JKは2006年秋に日本にやってきた。いや、私、そして多くのラグビーファンにとっては、やってきてくれたと行った方が正しい。彼は2006年のシーズン、できうる限り足を運び、トップリーグのみならず数多くの日本の試合を観に行った。私が秩父宮ラグビー場に行ったときはもちろん、テレビで観戦したほとんどのラグビーの試合のスタンドにJKの姿があった。
畳のあるアパートで暮らし、秩父宮ラグビー場に程近い立ち食い蕎麦屋で、そばをかきこむ。日本にうち解け、日本人の心情を理解しようと試み、それによって日本人のラグビーはどうあるべきかを考えてゆく。
交友関係を生かし、昨年、今年と連続で、少し前のオール・ブラックスのスター選手を集めたクラシック・オール・ブラックスを招待し、ジャパンと対戦させる。これは、もちろん選手のためにも、そしてファンにとっても最高のプレゼントだった。
本当にありがたいことに、JKのヘッドコーチの契約が、2011年のラグビーW杯まで延長されることが先月決まった。次の開催国はNZ。彼の母国に我々のジャパンを引き連れ、「ジャパン・ラグビーここにあり!」という痛烈な印象を残してきて欲しい。彼にはそれができると、信じている。
1989年にラグビー選手としての活躍が評価され、大英帝国勲章(MBE)受賞。また、自らうつ病であったことを告白し、NZ保健省による精神障害者への反差別運動のCMに出演するなど、この分野への貢献が評価され、昨年ニュージーランド・メリット勲章(ONZM)を授与される。NZオール・ブラックス、キャップ63。現役時代192cm、92kg。
第127回:日本にもラグビーの季節がやって来た!