2月19日23時少し前。新宿駅のホームは冷えていた。しかし例年の真冬のような、骨に染みるほどの寒さではない。通勤電車から吐き出されたばかりの私はコートの下で少し汗ばんでいた。自販機で冷たいペットボトルを2本買い、それをコートのポケットに入れるか、デイパックに押し込むか思案していると、列車が静かにホームに入ってきた。全車指定席の夜行快速列車『ムーンライトえちご』新潟行。23時09分発、新潟着は明朝04時51分。車体は国鉄時代の塗装を残す485系特急電車だ。鉄道ファンが名づけた愛称は電気釜。先頭車両を真横から見ると当時の電子炊飯器の形に似ているからだ。
新宿駅。新潟行きの表示は異色。
国鉄時代の塗装を維持というけれど、今年は国鉄からJRになって20周年となる節目だ。ということは、この電車も20年以上走りつづけたことになる。古びた外観はそのままだが、内装はリニューアルされている。椅子の質が良くなり、床も嵩上げされて視界が高い。ちょっとだけハイデッカーバス風の雰囲気だ。6両編成のうち1号車は室内が仕切られており、一部グリーン席となっている。今回、私はそのグリーン席の指定券を用意した。贅沢だと思うけれど、今回の旅はホテルに泊まらずネットカフェで過ごすと決めたから、浮いたホテル代をこちらに回し、良い座席でぐっすり眠ろうという魂胆だ。
私の席は1号車2番D席。進行方向に向かって右の窓側だ。16席のグリーン室の客は私を含めて4名。そのうち二人は進行方向左側で、ひとりは私の前の席のおばさんだった。彼女は発車前から眠るつもりらしく、シートを大きく倒した。私が少し腰を浮かせれば、カーラーを4つ巻きつけた頭髪が丸見えだ。グリーン席のリクライニング角度は大きく、これなら眠りやすそうだ。私も将棋倒しのようにシートを深く倒した。そうしないとおばさんの頭が視界に入ってしまう。
旧国鉄型の特急電車を使う。
発車前に車掌が検札にきた。早く眠りたい客のために早めに検札するとは良い配慮だ。しかし、もうひとりの車掌が担当車両を勘違いしたらしく、2度目の検札を始めた。私の前のおばさんは、「さっき来たわよ」と不機嫌そうな小声で抗議した。その声は車掌の耳には届かなかったようで、彼は平然と、「恐れ入りますが」と言いながら仕事を続けた。
指定券には1番目の車掌が押した検印があるのだが、彼は自分が二人目であることにまだ気付いていない。あるいは気付いたのに、検札をすると宣言してしまった手前、続けるしかごまかす方法がないのかもしれない。いや、もしかしたら、二人のどちらか偽の車掌ではないか。都会を深夜に出発する列車はちょっとした異空間である。
車掌が若い男女を連れて来た。私の後ろの席を案内し、グリーン指定料金を売っている。何かの事情で普通車の居心地が悪かったのだろうか、あるいは飛び込み客で、すでに普通車が満席なのだろうか。いずれにしても、真後ろにカップルとは落ち着かない。おしゃべりを始められたら煩くて眠れないからだ。
しかしその心配は外れて、二人とも静かだ。二人の関係が冷え切っているのか、あるいは駆け落ちで緊張しているのか。どちらにしても静かなのはありがたい。東海道線のムーンライトながらは若いグループに当たると騒がしいけれど、ムーンライトえちごの客はお行儀がよい。
新潟行の表示。
暖房がやや強めに効いているので、上着を脱いでティーシャツ1枚になった。これが2月の夜行列車とは信じられない。脱ぐ最中に列車が動き出した。寝た子も起こさぬ静かなスタートだ。新宿駅構内を出るときにゴトゴトとポイントを渡る音が聞こえて、そのあとは滑るように静かにスピードを上げていく。西武新宿駅が見える。次に西武線の高田馬場駅が見える。その線路が遠ざかると、今度は西武池袋線がこちらの線路越しに現れる。その線路はこちらと離れ、大きな建物に飲み込まれた。あれは西武池袋駅。この列車も池袋駅に停車する。
池袋駅から先は埼京線と山手線の二手に分かれる。北を目指す列車なら埼京線を走るほうが近道だ。しかしなぜか山手線側に進路を取る。正しくは山手線の内側の貨物線である。大塚、巣鴨と山手線の駅を眺め、駒込の先で山手線の線路を潜って北に向かい、東北本線に並び、赤羽の手前で埼京線と再会する。かつては新宿発東北方面行きの臨時列車だけが使っていたルートで、鉄道ファンに珍しがられた。しかし今は有り難味はない。湘南新宿ラインを筆頭に、新宿と東北本線方面を結ぶ列車はこのルートを通るからだ。
それでも乗る機会の少ない区間だから、車窓をよく見ておきたいけれど、窓の外は真っ暗だ。大都会とはいえ、まばゆいばかりの華やかさはメインストリートだけで、東京の夜はやっぱり暗い。鉄道線路などは特に暗く、街の谷底のようでもある。私には、ムーンライトえちごが、東京の出口を探して夜の底を彷徨っているように思えた。
ゆったりとグリーン席で。
旅は現実からの逃避だろうか。
目的地に向かうことは逃避ではないとはいえ、日常を離れることは確かに逃避かもしれない。今日も私はいくつか"やるべきこと"を抱えており、"白黒つけておきたいこと"を曖昧にしたまま列車に乗った。客観的に見ると、私は旅に出ている場合ではないかも知れない。しかし、コンピュータに例えれば、やるべき作業を停止して、ハードディスクをメンテナンスしたほうが、後々の作業効率が上がる。人間も旅に出て、心をメンテナンスした方が良いと私は思う。
列車は眠りにつこうとする住宅街を走り、大宮駅11番線に着いた。それを待っていたかのように隣の貨物列車が先に発車する。ムーンライトえちごは3分間停車する。その3分がとても長く感じられる。日常から離れることを迷っている旅人に、そのまま進むか引き返すかを決心させるための時間なのかもしれない。もう決心した。早く出発してくれ、と願った。しかし鉄道のシステムは厳格で、まだ動かない。
日常と旅の境目の大宮駅で、私はひとつ決着をつけることにした。携帯電話。メール送信。仲良くなって3年になる女性へ。毎年、バレンタインデーにチョコレートをくれたのに、今年は何もなかった。私は何かの原因で彼女を怒らせてしまったのだろうか。旅の感傷がなければそのままにして良いことではある。しかし、なぜかハッキリさせたかった。返事がなければ、それまでのことだ。
停車時間中に携帯電話が震えた。忙しくて買う暇がなかった、と書いてあった。やれやれ、脈がないとはこういうことか。安心と落胆を感じつつ、小さなことにこだわる自分の下らなさを嗤った。そう、これは"小さなこと"なのだ。他に考えるべきことはいくらでもある。
列車は大宮駅を発車した。数分後に車内放送があり、ひととおり停車駅を案内した後、新津まで照明を減光し車内放送は控えると説明された。暗くなった車内は静かだが、3番A席の客のヘッドホンから漏れる音が騒がしい。もうすこし続いたら何か言ってやろうと思っていたけれど、何度か浅い眠りを数えるうちに気にならなくなった。
列車がスピードを上げている。都会から抜け出して、自分の進むべき道を定めたようだ。私は小刻みな揺れに抱かれ、深い眠りを得た。
日常へ帰るきっぷも手配済み。
-…つづく
第182回からの行程図
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