第331回:流行り歌に寄せて No.136 「骨まで愛して」~昭和41年(1966年)
やはり小学4年生の子どもたちにとっては、衝撃的な歌詞だった。
「何だ、骨までって? 死んで骸骨になってからも愛してくれっていうことか?」と単細胞な男の子。
「違うはよ、全部全部、それこそ骨までも好きになってってことでしょう!」。こちらは、少しおませな女の子。
こういうことにかけては、これぐらいの年齢では、女子の方が男子の数倍理解力があるようだ。
この歌が流行って間もなくの頃だったと思う。クラスの女の子が1学年先輩の男の子を好きになり、その連絡役として私が使われたことがある。今で言うところの「パシリ」である。
「あの人に、これプレゼントだと言って持って行って。だけど、私の名前は言わないでよ。そして『後で一人になった時、中身を開けてください』って必ず言うのよ。中に小さく私の名前入れてあるんだから」と、完全に上からの命令である。
私は粛々とそのミッションを遂行した。相手は優しい人だったらしく、そのプレゼントを面白がって、皆の前で開封することなく、黙って自分のランドセルに仕舞ってくれた。私はホッとして雇い主に報告した。一両日後、彼女は報酬として袋に入った多めの紙の束を私に手渡して、「K君(私のこと)勉強好きだものね。計算用紙にでも使って」とニッコリしながら言った。
よくは分からないが、何か好感触でもあったのだろう。彼女はかなり上機嫌だった。その報酬の紙とは、後から知ったのだが、彼女の父親が経営している会社で使われていたもので、当時としてはまだ珍しい青焼き複写用の感光紙だった。それが時間が経つか何かの理由で、すでに感光してしまっていて、複写には使えなくなったものだったのである。
だから、私はこの『骨まで愛して』を聴くと、あの色褪せて紫色になった紙の束をすぐに思い起こしてしまう。彼女は、その後いともあっさりと振られてしまい、しばらくは落ち込んでいたが、一週間もしないうちに立ち直り、次のターゲットを探し始めていた。
「骨まで愛して」 川内和子:作詞 文れいじ:作曲・編曲 城卓矢:歌
1.
生きてるかぎりは どこまでも
探しつづける 恋ねぐら
傷つきよごれた わたしでも
骨まで 骨まで
骨まで愛して ほしいのよ
2.
やさしい言葉に まどわされ
このひとだけはと 信じてる
女をなぜに 泣かすのよ
骨まで 骨まで
骨まで愛して ほしいのよ
3.
なんにもいらない 欲しくない
あなたがあれば しあわせよ
わたしの願いは ただひとつ
骨まで 骨まで
骨まで愛して ほしいのよ
この一種シュールの歌詞を書いた川内和子は、川内康範の別ネーム。作曲の文れいじも北原じゅんの別ネームである。川内康範は北原じゅんの叔父にあたり、北原じゅんの実弟が城卓矢である。
城卓矢は昭和10年(1935年)11月28日、当時の日本領であった樺太生まれ、本名は菊池正規(まさき)といった。戦後引き揚げて室蘭に移り住み、そこで育った。その後、青年期に横浜に出てきて『NHKのど自慢』に出場し、好成績をあげたことがきっかけとなり、プロの音楽家たちに師事し音楽の世界に入っていくことになる。
デビュー当初の芸名は、本名と一字違いの菊池正夫で、民謡ロック調の曲を中心に歌手活動をしていたが、ヒット曲には恵まれなかった。そして、心機一転して芸名を城卓矢に改め、昭和41年の1月にリリースした曲が、この『骨まで愛して』で140万枚を売り上げる大ヒットとなった。
曲発売から半年後の7月、この曲の同タイトルの映画が、川内康範の脚本により、渡哲也主演の日活映画で上映され、城は本人役で出演している。
そして、この年の大晦日には、同曲で『第17回NHK紅白歌合戦』に生涯一度の出場を果たしている。対戦相手は、こちらも初出場の青江三奈で『恍惚のブルース』。色気のある曲での対戦となった。
その後も長く歌手生活を続けたが、『骨まで愛して』に次ぐヒット曲を生み出すことは叶わなかった。そして元号が変わってまもなくの平成元年5月9日、まだ53歳の若さでこの世を去ってしまった。
私が知っているのは一曲のヒット曲だが、それでここまで深く印象に残る人も稀であると思う。やはり圧倒的に強烈な、曲のタイトルの成せる技かもしれない。
-…つづく
第332回:流行り歌に寄せて No.137 「星影のワルツ」~昭和41年(1966年)
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