■ダンス・ウィズ・キッズ~親として育つために私が考えたこと

井上 香
(いのうえ・かおり)


神戸生まれ。大阪のベッドタウン育ち。シンガポール、ニューヨーク、サンフランシスコ郊外シリコンバレーと流れて、湘南の地にやっと落ち着く。人間2女、犬1雄の母。モットーは「充実した楽しい人生をのうのうと生きよう」!


第23回:ニューヨークの惨事について私たちができること
第24回:相手の立場に…

第25回:「罪」から子供を守る

第26回:子供に伝える愛の言葉
第27回:子供の自立。親の工夫

第28回:ふりかかる危険と自らの責任

第29回:子供はいつ大人になるのか? ~その1

第30回:子供はいつ大人になるのか? ~その2

第31回:子供はいつ大人になるのか? ~その3

第32回:Point of No Return
第33回:かみさまは見えない
第34回:ああ、反抗期!
第35回:日本のおじさんは子供に優しい??
第36回:子供にわいろを贈る
第37回:面罵された時の対処法
第38回:子供を叱るのは難しい!
第39回:トイレへの長き道のり
第40回:私はアメリカの病院が好きだ! ~その1
第41回:私はアメリカの病院が好きだ! ~その2
第42回:私はアメリカの病院が好きだ! ~その3
第43回:私はアメリカの病院が好きだ
! ~その4
第44回:駐車することさえ考えるな!
第45回:しつけとけんかの微妙なちがい
第46回:本当のアメリカの個人主義
第47回:人の目を気にしよう
第48回:自分の子供をどんな大人に育てたいか、ということ
第49回:国際人という人種はいない

 
最終回:大きな心を持って、強くなろう!

更新日2003/01/30


私の子供には日本人である自分を愛してほしいと思う。だから、名前も環と文というきわめて日本的なものをつけた。セカンドネームは、ない。 アメリカにいるとき子供の名前を聞かれて、それに答えると必ず「どういう意味?」と聞かれた。そこで、「環はPrecious Stone、文はBeauty of literature」と答えた。すると、必ず「Beautiful! いいわねえ、そういう美しい音と意味を子供の名前に込められるなんて」と言われた。それはもちろんお世辞であったのだろうが、ほんの少しの真実は含まれていたのだと思う。

時にはほかの日本人に「セカンドネームはないの?」と聞かれることもあった。そのセカンドネームとは、「西洋式の名前」という意味だと思う。正直、「どうしようかな」と考えたこともあった。そもそも名前を付ける時にも、「沙羅」とか「エリカ」とかどちらでも通用する名前にしようか、などと話し合ったこともあった。でも、結局日本名、それも何人かの友人に「レトロな」と評された名前になった。その理由は、「だって、日本人なんだもん」。日本語で響きと意味の美しいと思う名前になった。

自分自身が海外で生活して強烈に実感したことは、以前にも書いたが、自分は日本人なんだ、というきわめて当たり前の事実だった。そして、異文化の中で暮らす上で最も重要なことは「強い人間になるしかない」ということだ。結局、最後に頼れるのは自分自身しかない。自信を持っていれば、たいていのことは乗り切れる。その「自信」を構成するものは心技体だ。知識であり、経験であり、体力、そして精神力だと思う。

知識と体力は鍛えれば身に付く。経験は時を重ねるしかない。最も体得しにくいものは精神力だろう。海外に暮らしていれば、まったく言いがかりとしか思えないような差別を受けたり、日本人で(あるいはアジア人で)あるというだけの理由で嫌な思いをすることもある。そんな時でも、すぐに傷付いてしまうのではなく、「てやんでえ。お前にそんなことを言われる筋合いはないんだよっ!」と相手に噛み付けるだけのふてぶてしさを持っていないと暮らしていけない。

とはいえ、実際に私が海外生活でどれほど嫌な思いをしたか、と言えば片手でも多すぎるくらいの回数しかないのだけれど。嫌な思いは数多くしたけれど、それが即人種差別につながるとも思わない。たとえ私がどこの国の人間でどんな肌の色をしていたって同じ目にあっていたんだろうな、と思うからだ。世の中には変な人はたくさんいるからね。あるいは、私がそう思ってしまえるほどにふてぶてしくなったのかもしれない。

いつだったか、トーリー(ちなみに白人のアメリカ人)と「自分の子供にどんな大人になってほしいか」ということを話していた時、彼女は「どんな時にも礼儀正しい人になってほしい。でも、他人に踏み付けにされるような人間にはなってほしくない。自分の権利は自分できちんと守れる人になってほしい」と言った。まさにその通りだと私も同意した。その時は、アメリカのカリフォルニアという異民族が混在しているという日本とはかなり違う状況の中で話をしていたのだが、これはじつはどんな社会にいても通じる話だと思う。

日本に帰国してすぐの頃、町で金髪の人を見かけて「あら珍しい、外国の人?」と思ったら日本人だった、ということが多くて驚いた。服装もなんだかだらしない、というかアメリカの標準から言うと、あまり柄の良くない服装をした若い人がたくさんいるので、それもまた驚いた。でも、だんだん「あ~、人は見かけで判断したらいけないんだわ」と思うようになった。ぐずぐずしている子供を引きずってエレベーターにのろうとしている私の為にドアを開けて待っていてくれたのは、ずんだれたジーンズをはいて、耳にはピアス、そしてもちろん茶髪の10代の男の子。きちんと目を見て、「どうもありがとう」と言うと、その見かけは恐ろしげな彼ははにかんで「いや、どうも」と言った。かわいいじゃん。

世界にはいろんな信条を持った人、全く異なる文化的バックグラウンドを持った人たちがいる。それと同じように日本の中でも本当にいろんな人がいる。そんな中で暮らしていく上で、私が自分の子供に望むことは、どんな人にも分け隔てなく礼儀正しくあること。外見や人種で偏見を持たないこと。けれども、簡単に自分が傷付いてしまうような弱い人間には決してなってほしくない。だからこそ、努力と忍耐を重ねて知識と経験を積んで度量の広い人間になってほしいと切に願う。その為には自分自身が範を示せるように自分の言動に責任を持って行きたいと思う。

このコラムは今回を持って終了します。どうもありがとうございました。

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