のらり 大好評連載中   
 
■イビサ物語~ロスモリーノスの夕陽カフェにて
 

第157回:イビサを去る決断に至るまで

更新日2021/03/04

 

イビサに一体何年住んでいたことになるのだろうか?
元々数字に弱く、歳月を数えることに全く関心がない私は、どのような年月、数字に対しても「8」と答えることにしている。もしくは、「18」「80」と…。私にそんな質問をしてくる人も、正確な年月や数字を知りたいわけでなく、長いか、短いか、中くらいかだけを知ればそれで十分だという考えが、私がいつも「8」と答える言い訳になっているのかもしれない。
イビサに住んでいたのは8年より長く、18年より短いとしか答えようがない。もう半世紀近く(80年ではありませんよ…)前のことだから、数年の差など問題にならないと思うのだ。

ロバート・フロスト(Robert Frost)並に“自分が歩まなかった道(The road not taken)”を思うことがないではない。あのままイビサに残っていたら…と夢想するのだ。イビサでの暮らしは自分に合っていたと思う。狭い村的社会ではあったが、それだけに人間的繋がりが豊かだった。それでいて、個々の生活が独立していて、干渉し合うところがなく、日本的な肌寄せ温め合うベトついた人間関係はなかった。私だけの感情だろうが、あのイビサという島では自然に自分自身でいることができたと思う。

Gomez-apartment
ゴメスアパートのあるロスモリーノス地区

それに、海辺、崖の上の海を見渡すアパート、そして隣接した『カサ・デ・バンブー』に強い愛着があった。あのまま一生、ロスモリーノスのゴメスアパートに住み、夏だけのカフェテリアショーバイを続けてもよいと思った時期もあった。そんなに大儲けはしないけど、つつましく暮らしていくのに十分な収入はあったのだ。

どのような仕事でも、大なり小なり同じことの繰り返しだと思うが、ある一定の期間、年数を経てしまうと、繰り返しが苦にならず、逆にそのリズムから外れることに不安を感じるようになるのだろう。私のカフェテリア業はそこまでには至らなかった。シーズンが終わり、小銭をポケットに入れ、シーズン中に練った旅行プランに従い旅立つ時には、少し浮ついた興奮があった。

Ibiza Puerto-02
イビサ港と灯台、城砦都市が迫ってくる

Ibiza Puerto-01
白い島イビサは別名マジック・アイランドとも呼ばれた

そして4、5ヵ月後、島に戻ってくる時、飛行機の窓から見るイビサ島は楽園のように美しく、これぞ私の故郷だと思ったものだった。また、バルセロナ、ヴァレンシアからフェリーでイビサ港に入る時の感動はどう表現したらいいのだろう…。

夜が明け始めたイビサ港に緩々(ゆるゆる)と舳先を進める時、ロスモリーノスの風車跡、そのはるか下にゴメスアパートと『カサ・デ・バンブー』が見え、そして港を厳然と守るような城砦、それを取り巻く白く塗ったくった旧市街ダルヴィラ(Dalt Vila)、すべてが郷愁を呼ぶのだ。そして、こんな島に帰ってくることができる幸運を噛みしめるのだった。

しかし、いつの頃からだろうか、店を閉め島を出る時の開放感の方が、島に戻ってくる時の感動より強く感じられるようになってきたのだ。イビサへ帰ってくる時、それが飛行機であれ、フェリーであれ、“アア、また開店準備に追われ、接客ショーバイを始めるのか…” “アア~、また戻ってきてしまった、サーテト毎年繰り返してきたことを始めるとするか…”といった感情が沸くのを無視できなくなってきたのだ。

イビサは私に消し去ることのできない経験と強い郷愁を残してくれたにしろ、いつも頭のウシロの方に、カフェテリアのオヤジ業は自分の仕事ではない、一生続けることではない、という感覚があった。イビサで過ごした十何年かは無駄だったとは露ほども思わないが、もっと別のこと、他の可能性を求めるべきではなかったか…という考えが脳裏にあったと思う。そうかと言って、自分に確固たるモノ、絶対にやり遂げたいコトがあったわけではないのだが…。

尽きるところ、私のケチな精神―“どうせ生まれてきたんだから、遣りたいことを遣らずに終わらせるという法はない。ヤッタレ!”という否定的発想から出た決断で、ヨットにのめり込んでいったのだと、今になって思う。

子供の頃からの夢は、大海原をヨットで渡り、未知の島々を巡ることだった。そんな夢を分かち合った旧友ハットリがイビサのアパートにやってきた。ハットリは着実に一歩一歩物事を進めるタイプで、学生紛争が盛んだった時、かなりの論客ぶりを発揮していたが、あの悪夢のような過激な学生たちの自己陶酔と偽善性を見抜き、結末まで見通していたのだろう、 スッパリと大学を辞め、最下級の船員として石炭船に乗り組んだのだ。

あのまま在学していれば、専攻科卒業と同時に甲種2等航海士のライセンスを取ることができたにもかかわらず、便所掃除と錆び落とし、ペンキ塗りばかりやらされていると溢す状態から始めたのだ。しかしその間、全くの自習、独学で、次々と資格試験を通り、彼が甲種船長の資格試験をパスした年、独学でそこまで行ったのは彼一人だった。

ハットリはヨーロッパ航路の貨物船に航海士として乗り組み、休暇を利用してイビサにやって来たのだ。彼が来たことで、ヨットの夢が再燃した。ハットリは日本で下級船員として乗り組んでいる時、22フィート(6.7m)のヨットで日本一周をしており、セーリングの経験も航海術もただ憧れだけの私とは力量の次元が違っていた。

ハットリは二人でヨットを買い、外洋に乗り出すなら、今の仕事を辞めるつもりだとまで言ったのだ。そうまで言ってくれるなら、私も無駄遣いをせず、お金を蓄え、『カサ・デ・バンブー』を引き払わなくてはなるまい、と思わせたのだった。『カサ・デ・バンブー』とイビサの生活に終止符を打つ決断は、ハットリの存在が大きかったと思う。

加えてイビサの状況が変わってきていた。と言うべきか、その変化に私が付いていけなかったと言うべきなのだろう。『カサ・デ・バンブー』を盛り上げてくれたドイツ人グループの筆頭ギュンターが癌で亡くなり、クルツさん、バーバラさん、それにスコットランド人のルーシーさん、ノルウェーのミアさんが次々と亡くなった。常連の一角が崩れたのだ。イギリス人グループも、バー『フィエスタ』の主は心臓病で死亡し、パブ『ワグナー』のロイは島を去り、島に豪壮な邸宅を持っていたピーターとティンカもイビサに来る脚が遠のき始めたのだ。

そしてある年、イビサに帰ってきたところ、老犬アリストが行方不明になってしまったのだ。いつもの年だと、冬場は犬好きのルーシーさんに世話を頼むのだが、その年のオフシーズンにルーシーさんが倒れ、アリストの寝場所がなくなったのだ。行き場を失い野良犬になり、のたれ死にしたのだろうか…。老犬アリストが行方不明になり、彼を失ったことが、私がイビサを離れる遠因になったのではないかと思う。

『カサ・デ・バンブー』は、朋友ぺぺとカルメンのイビセンコ・カップルに譲ることにしたのだった。

 

 

第158回:イビサ再訪 【最終回】

このコラムの感想を書く

 


佐野 草介
(さの そうすけ)
著者にメールを送る

海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部女傑列伝 5
[全28回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部女傑列伝 4
[全7回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部女傑列伝 3
[全7回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部女傑列伝 2
[全39回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部女傑列伝 1
[全39回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部アウトロー列伝 Part5
[全146回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部アウトロー列伝 Part4
[全82回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部アウトロー列伝 Part3
[全43回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部アウトロー列伝 Part2
[全18回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部アウトロー列伝
[全151回]

■貿易風の吹く島から
~カリブ海のヨットマンからの電子メール
[全157回]


バックナンバー

第1回(2017/12/27)~
第50回(2018/12/20)までのバックナンバー


第51回(2019/01/17)~
第100回(2020/01/16)までのバックナンバー


第101回(2020/01/23/2020)~
第150回(2021/01/14)までのバックナンバー



第151回:フェルナンド一族のこと

第152回:亡命ハンガリー人のアルベルトのこと
第153回:“サリーナス”の駐車場にて
第154回:イビサのラクダ牧場
第155回:銀行との長い付き合い
第156回:パイロットになったカジノ・ディーラー

■更新予定日:毎週木曜日