第151回:フェルナンド一族のこと
以前、「第44回:デイヴィッド・ハミルトンの少女たち その2」のところで少し書いたが、3人の美少女の中で、私がボンヤリと憧れていた少女、ファティマの父親フェルナンドの一族のことを語ろうと思う。
フェルナンドは額が著しく後退した頭に、クルクルとカールし薄くなった髪を無造作に生やした40男で、英語、フランス語、ポルトガル語を巧に操った。フェルナンドの長女がファティマで15、6歳だったろうか、その下に1、2歳離れてパンチョという元気の良い男の子、そしてはるか離れて5、6歳にしかならない幼女がいた。
彼らの母親のことは知らない。私がフェルナンド一族と親しくなった時に、彼にはメルセデスという顔立ちのはっきりした美形の女性が主婦に納まっていた。メルセデスはおそらく30を出たか出ないかの年回りだったと思う。
グラビアのモデルとなったファティマ
どのような理由からか、日曜の午後に、フェルナンドの昼食に何度か呼ばれ、森の中にある古い農家の庭で、本格的なヴァレンシア風パエリャ(彼はヴェレンシア人だった)や、ただ単にいわしを薪で焼き、レモンを絞って垂らすだけの食事(これが馬鹿においしかった)に呼ばれた。
彼のところで私は初めてマリファナの洗礼を受けた、というか吸い方を習った。日差しのキツイ初夏のイビサの午後、木陰に広げた食卓で、食事の後のマリファナはよく効いた。
ファティマには、齢の頃18くらいの恋人ヴィセンテがいて、二人はまるで青春物の映画のひとコマのように手を取り合いキスを繰り返し、もつれるように二人で一緒にシエスタ(siesta;昼休憩)をとるために彼らの個室に引き上げて行った。そんな情景には慣れ切っているのだろう、フェルナンドは顔色一つ変えず、ティーンエイジャーの娘、ファティマとヴィセンテを自分の家に住まわせているのだった。
フェルナンドの父親は、フランコ時代にポルトガル、ブラジルの大使だか領事で、フェルナンドは親の仕事の関係上転々と住まいを変えた。どんなコネがあるのか、私がイビサに棲みついた時、フェルナンドはイビサのちょっとした顔役、情報通だった。彼も困ったことがあったら何でも相談してくれ、と私に言ってくれた。『カサ・デ・バンブー』の大家、ゴメスさんとは別の意味で、フェルナンドは私のゴッドファーザーになったのだった。
フェルナンドは主に仕入れのこと、税金のこと、どのように人を遣うかなどを教授してくれた。今もってどうしてフェルナンドが私にそんな好意を示してくれたのか分からない。単におっとり刀で、危なっかしい商売を始めた私を傍観できなかったのかとも思う。
真夏の夜、イビサはクラブやカジノが大盛況
フェルナンドは夜の12時に開店して、朝食までサービスするサパークラブをやっていた。まるきり夜と昼がひっくり返った営業時間帯だった。それを郎党一族、ヴィセンテを含めた血縁だけでやっていた。家長たるフェルナンドが采配を振るい、彼によく似た妹だか姉がコックで、ウエイトレスもファティマ、ヴィセンテ、ほかに姪を使い、部外者ゼロの人員構成だった。メルセデスは観光ガイドをやっていたが、仕事のない日はよく店に顔を出していた。
フェルナンドのサパークラブへ一度だけ行ったことがある。雰囲気もサービスも申し分ないのだが、肝心の料理が田舎風家庭料理とでも言うのだろうか、『サン・テルモ』などの本格的シェフのいるレストランにはとても及ばない、という印象を持った。それでも、夜中に他に食べるところがないこともあってか、固定の客がいて、フェルナンドの個人的繋がりでどうにか保っている風だった。
家族、親類の郎党だけで内を固めたショーバイは旨く機能している時は良い。売り上げ、儲けが順調に伸び、その儲けを家長たる中心人物が分け隔てなく上手に分配し、仕事の上でも人遣いの采配を上手に振るっている時は良い。だが一旦、商売が下り坂になると、アカの他人を雇用している時より、複雑な感情が入り込み、経営は難しくなる場合が多い。
フェルナンドのサパークラブは、膨大な負債を抱えて潰れた。こんな情報は、ワインの卸屋や肉屋の間ですぐに広がる。フェルナンドの小切手は危ない、不渡りになるとの噂は、羽が生えたように業者間を飛び回る。
ファティマの恋人ヴィセンテが憤るように伝えてくれたところによると、ヴィセンテは何ヵ月もタダ働きで、収入はチップだけだった。郎党一族の皆がその日の食料品を買うお金さえない状態だったと言うのだ。それにもかかわらず、フェルナンドは気前良く、店に来た客にワイン、ブランデーを奢り、景気の良いことばかり吹いていた。外面は素晴らしく良いが、一旦内輪に入ってしまうと、酷い扱いを受ける…と言うのだ。ヴィセンテはじきファティマと別れ、と同時にフェルナンドの下を離れた。
息子のパンチョは15歳になるかならないかで、他のレストランでウエイターをやり出し、確か翌年にはイビサを飛び出て、バルセロナで独自の道を歩み始めた。ファティマはスペインのグラビア雑誌でセミヌードの写真が数ページに渡り載るほどのモデルになった。名前を思い出せないのだが、一番下の娘はフェルナンドの愛人だったメルセデスが、母親代わりになり、育てていた。
城壁内のジプシー居住区(参考イメージ)
私がフェルナンドを知ってから、彼の家族の崩壊を見たのは、私のイビサ時代の初めの頃、3、4年間だったと思う。最後にフェルナンドに会ったのは、旧市街の城壁沿いの地区、すでにジプシーの巣窟に変わりつつあった地域でのバール・レストランだった。表に看板も何も出していない、普通の民家のような構えで、こんなところでいったい誰を相手にショーバイができるのだというようなロケーションだった。
私は人伝えにフェルナンドがそこでバール・レストランをやっていると聞き、訪ねたのだ。 その地域に足を踏み入れ、そして店構えを見た時、まさかあの誇り高いフェルナンドがこんなところでジプシー相手のショーバイをするわけがない、これは何かの間違いだ、フェルナンド違いだと思ったほどだった。
そこはヒナビタといえば聞こえはいいが、率直に言えば落ちぶれた場末の酒場だった。フレームを緑のペンキで塗ったくったガラスドアを開けて足を踏み入れると同時に、店の中にいた7、8人の客が値踏みをするように一斉に私に目を向けた。彼らの視線は、“ここはお前が来るところじゃない、トットと消えうせな!”と言っていた。カウンターの内側にいたフェルナンドが私を見つけ、大声で「オオ、よく来たな、こっちへ来いよ」と呼んでくれなかったら、私は引き返していたかもしれない。
サパークラブで金持ち連中に愛想を振り撒いていたフェルナンドは、この場末のバールでも同じように闊達に誰かれなく話し掛け、大声で笑っていた。だが、彼のバールは惨敗者、アル中の集合所だった。
フェルナンドは私に、ここに来る連中は皆気の良い人ばかりだ、だが俺はここにズーと留まっているつもりはない、もっと良い海岸通りに店を開く話があり、それまでの方便でこんなことをしている…と風呂敷を広げて見せたのだった。
フェルナンドは、なんとしても一杯のコニャック代を私から受け取ろうとしなかった。
第152回:亡命ハンガリー人のアルベルトのこと
|