第46回:Vietnam (1)
更新日2007/02/22
特にこれといった手続きもなく、あっさりと中国側のイミグレーションでの出国手続きを済ませ、歩いて数百メートル離れたベトナム側のイミグレーションへ向かった。二つの国のイミグレーションビルディングの間には、途中に赤い線が地面に引いてあり、それを跨げばその先は別の国ということらしかった。
なんてことのないただの線であるが、この線を巡って数多くの血がこれまでに流されてきたのかと思うと、ぴょんと跨いで国境を越えるだけの行為がなんだか特別な気もしてくる。飛行機で移動すると一体いつ国境を越えたのかなんて気にしないものだが、こうやって自分の足で地面に明確に引かれた線を越えるというのはなんだか奇妙なものだ。
小さなビルディングのベトナム側のイミグレーションでは、旅の目的と日程や行き先などについて簡単な質問を受けた後、パスポートへ入国スタンプが押された。
国境を越えると、そこには多くのタクシーや乗り合いバンの呼び込みが待ち受けていた。荷物を大量に抱えて国境を越えてきた地元の人たちは、あっという間にそれらに乗り込んで去っていくのだが、この地での相場を知らず、ベトナムの現地通貨であるドンも持っていなかった我々は、他の人たちと同じように呼ばれたものにすんなり乗ってよいものかどうか迷ってしまった。
しかし、これから何処へ向かえばよいのかも知らない余所者の我々にとっては、ここで待ち受けている彼らの車に地元民と一緒に乗り込んでしまうのが一番手っ取り早いことは確かである。5分ほど現地の人たちの流れを眺めていたのだが、まあどれに乗っても結局は運次第なのだろうし、待ち受けている乗り合いバンの中の1台へ乗り込んでみることにした。
狭い車内は窮屈ではあったが、その窮屈さを心配するまでもなく、バンは走り出してから10分もすると小さな町へ入り、一緒に乗り込んだ地元民を次々に降ろし始めた。どうしたものか分からないが、とりあえずは我々もそこで降りることにした。ところがである、まだベトナム入りしてからほんの僅かの時間しか経っていないというのにもかかわらずに、そのバンを降りたところでいきなりのトラブルに巻き込まれてしまうことになった。
このバンに乗る時点で、我々にはベトナム通貨のドンが手元になく、また地元の小型バンの相場も知らないということで、まあこれくらいであれば払ってもよいかなという希望額である、「一人1ドルで大丈夫だ」という話をつけてあり、本来はそれで何も問題はないはずであった。
だが、それで何も問題がないと考えていたのは、所詮こちら側の希望的観測に過ぎなかったようである。英語をまったく理解しない人々ばかりの中国という国を旅してきた後ということもあって、英語を理解する少年助手の乗ったこのバンとのやりとりに、安易に安心感を得てしまった自分にも責任があるのだが、むしろ外国人観光客相手のやり取りに慣れた、英語を理解する地元民こそが曲者というのは当然のことといえば当然のことであったのだ。
バンを降りる段階になって約束していた2ドルを手渡そうとすると、少年は「それでは足りない」と言ってきた。彼が要求してきたのは二人で5ドルという金額であった。「話が違うではないか」と文句を言ってみたのだが、先ほどまでの笑顔は何処へやら、ふんぞり返ったような仕草で、「5ドルを渡せ」と言う。確かに初めてこの地を訪れた我々は、いったいどのくらい払うのが相場なのかというのは、実際のところまだ知らなかったかもしれない。しかし、ベトナムの北の端にある辺境のこの小さな町で、しかも実際に乗ったのは10分そこそこの近距離であるのだから、いくらなんでもベトナムの物価を考えるとこれで5ドルは高すぎるというものだ。
再度少年に、「5ドルもの金は渡せない」と伝えると、今度はドライバーの男性が車から降りてきて、厳つい表情で少年の後ろに構え、要求どおりに払えというようなことを仕草で伝えてくる。この男性が車から降りてきたことで、一気にその場は単なる値段交渉から、一触即発の険悪な空気に満たされた場へと変化した。だが、我々にとってこれから始まるベトナム旅行のことを考えると、こういう状況のすべてにおいて相手の要求を呑み続けるわけにはいかないのだ。
そこで、「いくら5ドル払えと言っても、約束したのは2ドルだから2ドルしか払わないぞ」と、こちらも相手の対応に答えるように強い表情で伝えた。そうするとそのドライバーが、話しても分からないのなら無理やりにでも払わせるぞといわんばかりの体勢で脅してきた。こうなってくると、話はさらにややこしくなってくる。
いつまで相手をしていても決して状況が良くなる雰囲気ではないと判断して、2ドルだけを少年の手に渡して我々はその場を離れることにした。ところがである、それまでこのやり取りを遠巻きに眺めていた町の男性たちが、我々がその場を離れようとした瞬間に、パパパッと15人ほども行き先を塞ぐように取り囲んできたのだ。そんなものは無視してその場を離れようと歩を進めたのだが、その行き先をさらに塞ぐように取り囲んでいた男性たちが集まってくる。
さすがに手は出してこなかったが、その表情は明らかに脅しをかけてきている者たちの目であった。どんな町なのかよく知らない土地で、誰も助けてくれる者のいないなか、これだけの男たちに囲まれるのは、さすがに気持ちが良いものではなかった。いくらベトナムの男たちの体格が小振りとはいえ、これだけの人数に囲まれては、空手と柔道の黒帯を持つ自分も乱闘になって勝てる自身はまったくなかった。しかも、いざという局面になってこの場を切り抜けようにも、重い荷物とエリカが一緒ということもある。
3ドルを騙し取るために、町の人々が多勢でたった二人の外国人旅行者を取り囲むというこの状況に吐き気がしたが、煮えくり返るような気持ちを落ち着けて、最後にもう一度だけ「2ドルしか払わないぞ」と伝えた。するとどうだ、今度は町の男たちの中で英語の分かる者たちまでが、「5ドル払え、払わないと決してこの場から離れられないぞ」と脅しをかけてくるではないか。「うるさい! お前たちには関係ない。俺はこの運転手の車で来たのだ」と伝えてみるが、もう周りの男たち総出で、「いや、お前が悪い。払うものは払え!」とヤンヤヤンヤと騒ぎたててくる。
さすがに身の危険を感じたのと、これだけの人数にお前が悪いと大合唱をされると、人間というのは不思議なもので、なんだか「5ドル程度の金を払ってやらない自分の方が悪いのではないか?」などという気になってくる。もちろん冷静に考えれば、2ドルでよいと言っておきながら、5ドルを騙し取るほうが悪いに決まっているのだが、いつもこうやって、はぐれた外国人観光客をカモにしているのであろうし、そんなことを話しても通じる相手ではないのは明らかであった。
横を見ると、見知らぬ土地でこれだけの男達に取り囲まれているエリカは、さすがに緊張の極致といわんばかりの表情になっていた。もちろん、自分もここでいつまでもやりとりをしても、状況は好転しそうにないことは分かっていたし、余分の3ドル程度で乱闘騒ぎを繰り広げたいほどに若くはなかった。
-…つづく
第47回:Vietnam
(2)