■くらり、スペイン~イベリア半島ふらりジカタビ、の巻

湯川カナ
(ゆかわ・かな)


1973年、長崎生まれ。受験戦争→学生起業→Yahoo! JAPAN第一号サーファーと、お調子者系ベビーブーマー人生まっしぐら。のはずが、ITバブル長者のチャンスもフイにして、「太陽が呼んでいた」とウソぶきながらスペインへ移住。昼からワイン飲んでシエスタする、スロウな生活実践中。ほぼ日刊イトイ新聞の連載もよろしく! 著書『カナ式ラテン生活』。


■移住を選んだ12人のアミーガたち、の巻(連載完了分)

■イベリア半島ふらりジカタビ、の巻
第1回:旅立ち、0キロメートル地点にて
第2回:移動遊園地で、命を惜しむ
第3回:佐賀的な町でジョン・レノンを探す(1)
第4回:佐賀的な町でジョン・レノンを探す(2)
第5回:佐賀的な町でジョン・レノンを探す(3)
第6回:パエージャ発祥の地、浜名な湖へ(1)
第7回:パエージャ発祥の地、浜名な湖へ(2)
第8回:パエージャ発祥の地、浜名な湖へ(3)
第9回:パエージャ発祥の地、浜名な湖へ(4)
第10回:奇才の故郷に、ごめんくさーい(1)
第11回:奇才の故郷に、ごめんくさーい(2)
第12回:奇才の故郷に、ごめんくさーい(3)
第13回:奇才の故郷に、ごめんくさーい(4)
第14回:たいへん! ムール貝を、重油が覆う(1)
第15回:たいへん! ムール貝を、重油が覆う(2)
第16回:たいへん! ムール貝を、重油が覆う(3)
第17回:たいへん! ムール貝を、重油が覆う(4)
第18回:たいへん! ムール貝を、重油が覆う(5)
第19回:世界遺産で迷子にならない(1)
第20回:世界遺産で迷子にならない(2)
第21回:世界遺産で迷子にならない(3)
第22回:ピカソさん、戦争です(1)
第23回:ピカソさん、戦争です(2)
第24回:ゲルニカという町の意味(1)
第25回:ゲルニカという町の意味(2)

■更新予定日:毎週木曜日




第26回:ゲルニカという町の意味(3)

更新日2003/04/24


ゲルニカという人口6000人の小さな町が、どうしてフランコ将軍に協力するドイツナチス空軍による近代的空爆の実験場とされたのか。ツーリスト・インフォメーションのとても親切なハビエルは、「それを知りたいなら議事堂に行ったらいいよ」と教えてくれた。

Casa de Juntas de Gernika(議事堂)
Allende Salazar, z/g
毎日開館、入場料無料


4時の開館と同時に議事堂に入る。議事堂といっても、町の公民館くらいの大きさだ。「英語? スペイン語? 質問があったらなんでもどうぞ」 案内係の、これまた親切なこれまたハビエル(同じ名前は多い)が、パンフレットを手渡してくれる。ここには、ふたつの部屋しかない。実際に使われている会議場と、「ステンドグラスの間」という名のサロン。この部屋は天井の全部が、樹の下に市民が集まって集会をしている図柄の巨大なステンドグラスになっている。

ふぇぇぇ、でっけぇ、すげぇ、と、ソファに座ってほけーっとしていると、ハビエル(これはさっきと同じ案内係のひと)が「なにか質問はない?」と、にこやかな笑顔で隣に腰掛けた。ゲルニカの歴史を知りたいと言うと、ぐっと体を乗り出して話してくれた。


「このあたりは、紀元前1万年以上も前からひと(というかクロマニョンのころね)が住んでいたんだ。北西に5km行ったところには、アルタミラにも負けないくらい素晴らしい当時の洞窟画が残っている。やがて、集落ができた。1366年にゲルニカは町となったが、その時点でこのビスカヤ県には22の教会と、22の村があっんたんだ。これがなにを意味するかというと、すべての村が自然発生的にできたということなんだよ。

かつてそれぞれの集落には、住民がその集落の大きな樫の樹の下に集まって大切なことを話し合うという習慣があった。中世ヨーロッパでよく見られた光景だ。それが次第に、ここゲルニカの樹に統合されるようになったんだ。そんなバスク地方の伝統は、現在まで受け継がれている。いまもビスカヤ県の会議やバスク州の宣言は、この議事堂の外にある樫の樹の下で行われるんだよ。


1860年に植えられた現在の樹。古い樹の直系子孫になる。演壇の後ろには樹齢40年の若木が成長中。


 樹齢300年くらいの「古い樹」。

わかるかい? だからこの樹があるゲルニカは、バスク地方の民主主義と自由尊重のシンボルなんだ。だからこそ、中央集権化を目指すフランコに狙われたんだ」


頭が殴られたような衝撃だった。圧倒的な暴力によって破壊されたのは、町がひとつ。2000人の生命。そして、民主主義と自由尊重という思想だったのだ。

名もないひと、なんの価値もない町、なんてない。死んだのは、必ず父と母がいる誰かであり、誰かに愛されて生まれてきて、生きてきたひとなんである。彼は「ハビエル」だったかもしれないし、彼女は「カナ」だったかもしれなくて、スポーツが得意だったかもしれないし、いつも寝癖を立てていたかもしれないし、あるいは生まれて最初の一言すらまだ発したことのない赤ちゃんだったかもしれない。あるいはそれを愛しそうに見つめる兄や姉、あるいは親だったかもしれない。

ゲルニカや広島や長崎や世界中のあちこちで、そんな「名のある」ひとがたくさん死んだ。そしてそんな彼らが住む町が、なんの価値もないわけはない。しかもゲルニカは、民主主義と自由尊重のシンボルとして、バスク地方から広く敬意を払われていた場所なのだという。あぁ、なんかもう、戦争って!

ハビエルが席を立った。新たにやってきた訪問客を出迎えるために。カナダから来た友人3人組、ブラジルから来た3世代の一家。それから、バスク地方の学校の生徒たち。いまは民主主義と自由尊重に加えて平和のシンボルともなったこの町で、みんなはなにを感じるのだろう。そうだ、思想は、爆撃じゃ破壊されなかったのだ。より強くなって、生きて、いまもひとびとに訴え続けているのだな。人間は葦だけど考えるんだぜってやつか? 「板垣死すとも自由は死せず」とかも聞いたことあるな。もちろん死なないなら死なないに越したことはないと思うのだけど。「板垣も自由もビンビンだぜっ!」とか。

などととりとめのないことを心地良いソファーに身体を沈めて思っていたが、ふと時計を見てハッとして立ち上がった。気がつくともう6時に近い。ビルバオに向かわなければならない時間だった。


案内係のハビエルに礼を言って議事堂を後にし、ツーリスト・インフォメーションのハビエルからもらった時刻表を見ると、ちょうど汽車があった。所要時間約50分、2.10ユーロ(約270円)。乗り込んだ三両編成の汽車は、たまに単線になる線路を、ぽくぽくと進んだ。窓の外には牧歌的な風景が広がる。でもなんだか今日はなにを見ても、「これが一瞬にしてなくなることがあるんだな」なんて思ってしまう。

ストライキにより唯一の運行となったビルバオ発8時のバスに乗り、0時40分にマドリードに到着。地下鉄は2時まで運行されているので大丈夫だが、本来なら2時間早い便で帰ろうと思っていたこともあり、時計を見てどっと疲れが出た。ここから家までさらに45分、と、ふらふらバスを降りると、思いがけずダンナさんの姿があった。「さっきまでちょうど同僚と外で飯食ってたから。ほら、荷物貸し。持ったるから」と、手を出す。

胸を衝かれた。
 
私にとって、このダンナさんというひとひとりが死ぬかもしれないという可能性だけをもってしても、戦争って、本当にひどいと思う。もしこのひとが、空のずっと上のこちらの顔も見えないようなところから無造作に落とされた爆弾で死んだなら、いったいどうなるだろう。私も死ぬ、ってことはないだろうけど、少なくともそのときには私の半分が死ぬのと同じような思いをするだろう。そして本人は、半分どころか、全部、まったく、死んでしまうのだ。

実験という名目の市民への無差別攻撃で亡くなったゲルニカの2000人、広島の14万人(1945年末まで)、長崎の7万4千人(同じく)、そしてその死で痛みを受けたたくさんのひとに、こころのなかで手を合わせた。横を見ると、ダンナさんが口笛吹きながらハンドルを握っている。ちくしょう、幸せだよ、私は。そんでもって、必死こいて、いつまでも幸せでいてやるからな!

幸せでいようぜ。平和で、いようぜ。こうして、生きてるんだもんなぁ。

 

 

第27回:伝説の恋人、だけじゃない町(1)