のらり 大好評連載中   
 
■新・汽車旅日記~平成ニッポン、いい日々旅立ち
 
第340回:懐かしい響き -SL冬の湿原号-
更新日2010/07/29


4人掛けのボックスシートに母と二人。幸いにも相席の客がいなかった。車内の売店で駅弁や飲み物を調達してテーブルに並べた。座席を求めて歩いていた人々も減り、出発前のざわつきも落ち着いてきた。もうすぐ発車である。私は嬉しくなってきた。母も同様だろう。ふぉぉぉと汽笛が鳴って、軽い衝撃がきた。一瞬の静寂があって、また衝撃。こんどは力強く引っ張られる。客車特有の挙動である。「懐かしい音ねぇ」と母が言う。この上なくうれしそうである。蒸気機関車は全国で復活しており、汽笛の音なんてTVで何度も聞いている。しかし、ライブ音には独特の臨場感と迫力がある。

「懐かしいって、何年ぶりですか」
「60年位かな」
「母さん、まだ子供のころじゃないの」
「そうよ。小学校に上がる前」
にわかに想像できないけれど、そりゃあ母にだって少女時代はあっただろう。そういえば、母の子供のころの写真を見たことがない。祖父は新しい機械が好きだったから、きっと写真があるはずだ。まあ、頼んでまで見せてもらおうとは思わないけれど。


SL列車からの風景。

太平洋戦争が終わったとき、母はまだ子供だったと聞いたことがある。
「戦後はどの汽車も混んでいて、窓から乗る人もたくさんいたわ。トイレも行けないくらいで、子供は窓から用を足していたわねぇ」
などと言う。他人事のように言うけれど、彼女もそんな子供の一人だったに違いない。私には理解できない昔の話。蒸気機関車が当たり前で、珍しくなかった時代の話である。タイムマシンがあるなら、蒸気機関車が闊歩した時代を体験してみたいと思う。しかし、冷房も暖房も整っていない時代だと思うと、やっぱり今が一番いい。

列車が速度を上げると、微かに石炭の匂いが漂ってきた。この匂いも母の懐かしさの要素だろう。母の実家は銭湯である。石炭を燃やしたころもあったかもしれない。物資の少ない戦中戦後は、燃やせるものなら何でも燃やしたはずだ。10年前以上前に88歳でなくなった祖父が、二十歳そこそこで風呂屋を始めた。その銭湯は今も母の弟が守っている。あれ、そろそろ開業100年になるような気がする。祖父はひとつの場所に腰をすえて半世紀以上も商いを続けた。なかなかすごい人だと思う。


煙が懐かしい香りを運んでくる。

車窓は今までと変わらぬ雪の平野である。午後の強い日差しを受けて、まぶしいほどの白さだ。ときどき車窓が暗くなった。蒸気機関車の煙が降りて、照り返しを遮っている。青い空、照りつける太陽。真綿のような雪の原。もしかしたら、外は暖かいかもしれないと錯覚する。しかし、これでも気温は氷点下である。窓を開けようなんて思ってはいけない。そういえば、スハ44は旧型客車で乗降扉は手動だった。私が高校生のころ、まだ上野から常磐線方面の旧型客車の列車が残っていた。扉を開けたまま走る列車があったなんて、今では考えられないことである。この客車も自動扉に改造されているようだ。

私は車内の売店で買った駅弁を母に勧めた。『SL冬の湿原号特製弁当』である。中味は北海道の海の幸がふんだんに盛り込まれており、それゆえに私は食べられない。食べられないけれど中味は見たい。母に勧めておいて、食べようとしたところを制し、写真を撮った。「私だけ食べちゃって悪いわね。あなたはお腹が空かないの」と母が言う。私は標茶駅で買った菓子パンを見せた。母は安心したらしく、うれしそうに箸を動かす。
「私、ふだんは朝ご飯なんて食べないのよ。さっきおにぎりと鶏肉を食べちゃったから、お昼ご飯なんて食べきれないわ」
いやいや、見事に平らげた。
「食べられるかしら」と言いつつ食べてしまう。いつものことだから私は驚かない。


母のSL弁当。私が食べられないものが多い。

車内放送で車窓の解説が始まった。雑音にかき消されてよく聞き取れない。注意深く聞いていたら、列車が釧路湿原に入ったらしい。どちらを向いても雪景色だからさっぱりわからないけれど、茅沼駅を過ぎたあたりから、右の車窓が釧路湿原である。右は私たちが座っている側だ。反対に、左の車窓からは湖が見えるという。背を伸ばしてみたけれどよくわからなかった。車内放送は日本語が終わると中国語が始まる。JR北海道としても中国からの観光客を意識しているらしい。

そういえば、中国語通訳と言う名札を付けた係員が男女1名ずつ乗っていた。中国では、SLが現役だと聞いたことがあるし、大陸北西部の冬は北海道より過酷だろう。そんな中国の人々にとって北海道は珍しいだろうか。上海や香港あたりの南の地方の人にとっては珍しいかもしれない。それに、中国の北国は観光どころではないほど過酷かもしれない。山崎豊子の小説『大地の子』に出てきた労働収容所を思い出し、いろいろ想像してしまう。まさか、もうあのような時代ではないと思うけれど。


隣の車両のストーブでスルメを焼き始めた……。退散。

湿原の、列車が駅に止まるあたり小さな看板が立っている。「鶴が飛来するから、ホームから降りないで見守ってほしい」という内容と「鶴は煙と汽笛が嫌い」という、SLの運行に反対する趣旨とがある。観光と自然保護の兼ね合いは難しい。SLの運行が誰からも歓迎されているわけではない。それはそうだろうと思う。だからこそSLは淘汰され、ディーゼルカーや電車と交代してきた。それが近代化である。しかし、SLのせいで鶴が飛来しなくなるかというと、それはちょっと怪しい。鉄道にSLしか走っていなかったころから鶴は来ていたはずだ。さっきも、遠くに鶴が見えると放送があった。まあ、遠くであるけれど。

鶴の気持ちは解らないけれど、鹿はSLなど気にしていない様子だ。たびたび車窓に現れては、車内の人々の歓声を起こしている。つがいだったり、親子だったりするようだ。雪原に鹿が走る様子を見ると、いかにも北海道らしい風景だと思う。鹿は本当に怖いもの知らずで、人や人が作った物を恐れない。宮島や奈良の鹿は平然としている。だからこそ神の使いだという説になったかもしれない。もっとも、北海道では列車と鹿の事故のニュースは絶えない。乗客は喜んでいても、運転士は冷や汗をかいているかもしれない。


線路のそばまで鹿さんたちが来る。

白い大地の様子が少し変わり、雪の積もり具合が整ってきた。ここはもう畑だろう。少しずつ建物が増えて、列車は市街地に入った。釧路である。標茶を出て1時間20分ほど経った。短かったような、これ以上は飽きてしまうような、乗り物アトラクションとしてはちょうどいい時間だった。客車はカタカタとポイントを渡り、ゆっくりとホームに滑り込んだ。15時10分。晴天の午後だったせいか、あるいは網走とは気候が違うためか、釧路駅の寒さは緩い。


釧路に到着。この向きで走ってきた。


記念撮影には都合がいいかも?

まだ明るいから、釧路でも見物をしたかったけれど、私たちは1時間後の特急"スーパーおおぞら12号"で帯広に向かう。明日の朝一番の帯広発の特急に乗るためだ。帯広駅のわずかな時間、私たちはトイレと本屋、そして、鮭の稚魚が泳ぐ水槽を眺めた。釧路発札幌行きの特急は最新のディーゼルカーで、とても乗り心地がよい。母も私も、約1時間半の車中をくつろいで過ごした。

私には帯広で泊まる理由がもうひとつある。名物の豚丼を食べたい。今回の旅の日程を作ったとき、肉食の私が満足できそうな食事は帯広の豚丼しかなさそうだった。網走では海鮮居酒屋、駅弁も海の幸で、母にはうれしく私には苦手。今夜は母にも肉食になってもらおう。


本日の締めくくりは最新の特急車両。


帯広名物の豚丼。鰻丼の豚肉版という印象。

-…つづく

このコラムの感想を書く


杉山 淳一
(すぎやま・じゅんいち)
著者にメールを送る

1967年生まれ。東京出身。東急電鉄沿線在住。1996年よりフリーライターとしてIT、PCゲーム、Eスポーツ方面で活動。現在はほぼ鉄道専門。Webメディア連載「鉄道ニュース週報(マイナビ)」「週刊鉄道経済(ITmedia)」「この鉄道がすごい(文春オンライン)」「月刊乗り鉄話題(ねとらぼ)」などWebメディアに多数執筆。

■連載完了コラム
感性工学的テキスト商品学
~書き言葉のマーケティング
 
[全24回] 
デジタル時事放談
~コンピュータ社会の理想と現実
 
[全15回]

■鉄道ニュース(レポーター)
マイナビニュース
ライフ>> 「鉄道」
発行:マイナビ

■著書
新刊好評発売中!(6/23/2009)
『もっと知ればさらに面白い鉄道雑学256』
杉山 淳一 著(リイド文庫)


『知れば知るほど面白い鉄道雑学157』
杉山 淳一 著(リイド文庫)


 

バックナンバー

第1回~第50回まで
第51回~第100回まで
第101回~第150回まで
第151回~第200回まで
第201回~第250回まで
第251回~第300回まで

第301回:旅と日常の舞台
-神戸新交通ポートアイランド線-

第302回:車両を持たない鉄道会社
-神戸高速鉄道-

第303回:街から10分でダムの山
-神戸電鉄有馬線 1-

第304回:スパイラルと複線化工事
-神戸電鉄粟生線-

第305回:大学の先輩の取材顛末
-北条鉄道-

第306回:谷上駅の珍現象
-神戸電鉄有馬線2-

第307回:天狗、コンクリートタウンへ行く
-神戸電鉄三田線・公園都市線-

第308回:雨の温泉街
-神戸電鉄有馬線3・北神急行電鉄-

第309回:夜は地下鉄をぶらり
-阪神電鉄本線・大阪市営地下鉄-

第310回:思い出のメガライナー
-JRバス・青春メガドリーム号-

第311回:阿房新幹線が行く
-トワイライトエクスプレス1-

第312回:まずはロビーカーでのんびり
-トワイライトエクスプレス 2-

第313回:食堂車でランチを
-トワイライトエクスプレス 3-

第314回:寝台列車で眠れ
-トワイライトエクスプレス 4-

第315回:駒ヶ岳を眺めて朝食
-トワイライトエクスプレス 5-

第316回:幹線と閑散線の境界
-江差線1-

第317回:天の川駅の向こう
-江差線2-

第318回:30年ぶりのA寝台
-寝台特急日本海 1-

第319回:夜明けのミニ・ロビー
-寝台特急日本海 2-

第320回:模型にしたい景色
-福井鉄道1-

第321回:懐かしき時代のスクラップブック
-福井鉄道 2-

第322回:九頭竜川と恐竜
-えちぜん鉄道勝山永平寺線-

第323回:出迎えはイグアノドン
-えちぜん鉄道勝山永平寺線2-

第324回:大野城ウォーキング
-京福バス勝山大野線・越前大野駅-

第325回:地産地消で満腹満悦
-越美北線1

第326回:九頭竜湖サイクリング
-越美北線2-

第327回:奥様の親切に感謝
-えちぜん鉄道三国芦原線-

第328回:砂丘と犬と軍事施設
-北陸鉄道浅野川線-

第329回:静謐な駅
-北陸鉄道石川線-

第330回:劇的なリフォーム
-富山ライトレール-

第331回:ゆっくりとワープ
-寝台特急北陸-

第332回:母と訪ねる3000キロ
-東北新幹線はやて-

第333回:雪国の暑い夜
-特急つがる&急行はまなす-

第334回:夜明けの札幌駅
-急行はまなす-

第335回:クリスマスツリー街道
-流氷特急オホーツクの風 その1-

第336回:流氷遥かなり
-流氷特急オホーツクの風 その2-

第337回:凍る海を眺めて
-釧網本線 網走-知床斜里-

第338回:無人駅の時間
-流氷ノロッコ号-

第339回:雪の峠越え
-釧網本線 知床斜里~標茶-


■更新予定日:毎週木曜日