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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第15回:バッハを聴く資格 その5

更新日2022/03/03

 

■信仰 2

私の義理の妹と彼女の夫は聖書の一言一句を丸ごと信じている。少なくともそのように公言している。そのような新興キリスト教団に加わり、毎日曜日の礼拝を欠かさない。そんな人たち、信者が何百万人といることに驚くばかりだ。これを鰯の頭も信心から…と言わずに何と呼べばいいのだろう。 

元々、荒唐無稽としか言いようのない聖書の“オハナシ”“奇跡物語”をどのように解釈し、説明しようとそれは虚しいことだ。そして、あの趣味の悪い十字架は何なんだろう。カトリック、プロテスタントを問わず教会や街角には何百万という血だらけのキリストが十字架に張り付けになっている彫刻、絵画が溢れている。スペインの安ペンションに泊まると、ベッドの頭の壁に粗悪な、おそらく大量生産された、キリスト張り付けの彩色されたグロテスクな塑像、木彫、絵画が飾られている。あれは安眠を妨げる効果しかない。

しかし、キリスト教の不思議は、それが生み出した膨大な絵画、彫刻、そして音楽が厳として存在することだ。その中から偉大な“ゲージュツ”が生まれたことだ。

バッハもその系譜の中にある。

バッハのルッター・プロテスタントの信仰心を疑うものではないが、彼は音楽が、信仰を上回ると思っていたようにさえ見える、聞こえる。当時からバッハのミサ、受難曲は、オペラ的に過ぎる、イタリア的に過ぎると非難され続けてきた。

よく引き合いに出される評論家のシャイベ(Johann Adolf Scheibe;1708-1776年)が公然と批判したように、バッハの音楽は、彼だけが演奏可能なほど難しく、普通の音楽家には演奏不可能だ、主旋律が聞き取れない、曲想は自然でなく、重苦しいと書いている。バッハの教会音楽は生前から、ミサを司る主任牧師の説教を押しのけ、それを上回ると非難され続けてきた。

辻壮一は、バッハの音楽にイタリア人、ペルゴレージの“スタバート・マーテル”(涙の聖母)やオペレッタ“奥様女中”から相当影響を受けているとしている。確かに、ペルゴレージのオペレッタ“奥様女中”は、バッハの生前、ドレスデンで公演されているから、目と鼻の先のライプツィヒからバッハが駆けつけた可能性はある。従って、シャイベの批判(一般のドイツ人の声といっても良いだろうか…)は、大いにそれなりの理由があったとしている。

それに対して、バッハは彼の音楽の深い理解者だった大学教授ビルンヴァムに頼んでシャイベに反論を試みている。バッハ自身、いかにシャイベに非難されようと、彼の作曲や演奏の方向を変えるつもり、気遣いは全くないのだから、今のお前たちには理解できないだろうけれど、将来、必ず分かるようになると諦観し、彼の音楽への批判を放っておいても良さそうなものだが、そうせずに、いちいち反論しているのだ。このあたりのしつこさは相当なものだ。

本来、教会の音楽はあくまで説教を中心としたミサの流れに沿うものであり、音楽はほんの添え物だった。いかにマーティン・ルッターが音楽好きで、自身いくつかの賛美歌を作詞、作曲しているにせよ、教会内でミサを司るのはあくまで牧師だ。オルガンはミサが始まる前、三々五々信者が教会に足を踏み入れ、思い思いの席に着くまでのバックグラウンド・ミュージックであり、賛美歌を歌う時の伴奏だった。

言うまでもないことだが、教会を司るのは“聖職者議会”で、そこで毎週日曜日、祝祭日の礼拝の遣り方、プログラムが決められ、それに沿ってどこにどのような音楽を挟むか決められる。カントルン(教会の楽長)はそれに従い、音楽を奏でる。オペラ的なミサ曲が礼拝を支配し、乗っ取ることなど、許されるはずがなかった。

音楽?そりゃ礼拝に欠かせないが、教会に集まった信者たちの心を音楽が奪ってしまうのは本末転倒だ…と考える聖職者が多数を占めていたのだ。

しかし、バッハの音楽はそうでなかった。ここにバッハのオルガンは力強く教会全体を震わせ、合唱隊の歌声は参列者の心を掴み揺さぶるものだった。毎週日曜日のミサは、バッハにあっては音楽が主体だった。主体が云い過ぎなら、バッハは信仰と音楽の調和をそこに視ていたのだろう。バッハの音楽は圧倒的であり、当時の人々にとって大きすぎ、重すぎたのだろうか。

ザクセンの王、ストロング・アウグスト2世が、カトリックの国ポーランドとリトアニアの王を兼任した。バッハはその戴冠式の祝祭音楽の作曲を受けている。それどころか、バッハは盛んにカトリック王アウグスト2世に自分を売り込んでいるのだ。ポーランド王はカトリック教徒に限られていたから、アウグスト2世は戴冠するために、当然カトリックに改宗した。ルッターのプロテスタントとは敵対していたカトリックのために、バッハは作曲しているのだ。結果、バッハはザクセン、ポーランドのカトリック王から“宮廷作曲家”の称号を得た。

No.15-01
ザクセン、ポーランド、リトアニア王、アウグスト2世
(ザクセン選帝候としてはフリードリッヒ・アウグスト1世)の肖像画
驚異的な馬鹿力の持ち主だったところから“The Strong”と呼ばれている。
彼が戦争上手で外交の手腕が優れていたわけでも、王権を拡大しガッチリと固めたわけでなく、
“The Strong”はただひたすら彼の動物的な怪力に付けられたアダナだった。
彼はポーランド、リトアニアの王権を得るためカトリックに改宗した。 また、彼は精力絶倫の
プレイボーイ、女タラシで、あくまで推定だが365人から382人の子をもうけた。

No.15-02
この金ピカの銅像はドレスデンの町を割るように流れる
エルベ川の対岸にドレスデンを睥睨するかのように建っている

No.15-03
ドレスデンの壁画に描かれたアウグスト2世と息子のアウグスト3世(右)
この壁画は元旧市街を取り巻く城壁に描かれている。
やはり、金ピカだがこの壁画の方が出来が良いような気がする。
屋外にあるにもかかわらず、保存状態は非常に良い

 
加えて、バッハはモスクワに良い仕事があるという情報を得て、就職斡旋を依頼してさえいる。バッハはロシア正教に改宗するつもりだったのだろうか? バッハはリューネブルク(Lüneburg)時代の同級生ゲオルク・エルトマンがロシアの皇帝の宮中顧問官に大出世したのを知り、奇妙にへりくだった仰々しい、ほとんど自分を卑下した長ったらしい手紙を書き、就職の斡旋を依頼しているのだ。それがライプツィヒのカントルンになったすぐ後のことだ。

それに対し、ゲオルク・エルトマンは丁寧に、待遇の良かったケーテンの宮廷楽長の仕事を辞めて、格下の聖トーマス教会のカントルン、トーマス学校の教師の職になぜ就いたのだと返事をしたためている。バッハは、それは子供たちの教育のために止むを得ない選択だったと答えている。

 

 

第16回:バッハを聴く資格 その6

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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第1回:私はだまされていた…
第2回:ライプツィヒという町 その1
第3回:ライプツィヒという町 その2
第4回:ライプツィヒという町 その3
第5回:ライプツィヒという町 その4
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第7回:バッハの顔 その1
第8回:バッハの顔 その2
第9回:バッハの顔 その3
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第11回:バッハを聴く資格 その1
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第13回:バッハを聴く資格 その3
第14回:バッハを聴く資格 その4


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