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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第16回:バッハを聴く資格 その6

更新日2022/03/10

 

■信仰 3

息子たちの教育のため? それはケーテンを去った本当の理由ではない。少なくとも、第一に挙げるほどの理由ではない。ケーテンのレオポルド侯は音楽好きで、いかにもバッハを優遇した。ケーテンは元々痩せ地が多く、豊かな宮廷ではなかった。そこへ18人もの楽員を揃え、バッハを400ターレルという高給で迎えたのだ。この給料はケーテンの宮廷では2番目に高いものだった。宮内大臣のフォン・ノスティッツと同額だった。

宮廷楽団を支えるための出費は小さなケーテンにとって莫大と呼んでもいいほどの額だった。ケーテンの国家予算?をみると、バッハが就任した時代で、総額7,600ターレルほどだったから、この貧乏宮廷は分に余る楽団を抱えていたと言える。そのおかげで、我々は多くの器楽曲を楽しむことができるのだが…。管弦楽組曲、ブランデンブルグ協奏曲、平均律クラヴィア(第一集)はこのケーテン時代の作である。

この幸福な関係、レオポルド候とバッハの関係は、レオポルド候がフレーデリカ・ヘンリエッタという冷酷ともいえる音楽嫌いを后(きさき)に迎えた時に終わっている。ヘンリエッタはバッハに、バッハの音楽に、レオポルド候とバッハの友情に嫉妬していたかのようである。

No.16-01
レオポルト・フォン・アンハルト=ケーテン
(Leopold von Anhalt-Köthen;1694-1728年

レオポルド候、母親ギゼーラ・アグネスに芸術全般、とりわけ音楽に対する深い愛情を育まれた。自身、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロをこなした。きっと優しすぎる性格だったのだろう、后に迎えたヘンリエッタに毅然と、「お前、黙っとれ。俺のやることに口出しするな!」と言えなかったのだろうか、歯がゆい思いがする。この肖像画の表情からレオポルドの意思の弱さを感じるのは、歴史的あるいは文学的な知識を持ってしまった現代人の偏見だろうか。

No.16-02
フリーデリカ・ヘンリエッタ
(Frederica Henriette of Anhalt-Bernburg;1702–1723年)
 

この肖像画では、温和な、優しそうな表情を持っている。が、彼女は格式を重んじかつ傲慢で、自分の身分を守ることにはコチコチで、音楽士など歯牙にもかけない低級な人種だと信じていた。彼女はねちっこく、事あるごとにバッハの音楽を、バッハ個人をけなし、排除しようと精魂傾けたのだった。産褥で死ぬことになるのだが、王后を失ったレオポルド候に音楽への情熱が戻ってくることはなかった。

バッハがケーテンを辞め、ライプツィヒに職を求めた第一の理由は、このフリーデリカ・ヘンリエッタにある。

たしかに、ライプツィヒの音楽学校、大学はハイデルブルグと並び、ヨーロッパ全土に知られるほど有名だったから、孟母三遷(もうぼさんせん)の教え*1のように、子供たちに優れた教育を授けるのに適切な町ではあった。しかし、長男坊のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハはまだ13歳だった。大学に入るには5年待たなければならない歳だ。 

バッハがライプツィヒに27年も、死ぬまで住んでいたのは、他に条件の良い仕事場がみつからなったからで、自分の能力を発揮できるところなら、どこへでも行くつもりだったとしか思えないのだ。たとえそこがルッター派を国宗としているところでなくても構わなかったとしか思えない。バッハは常に自分の能力を発揮でき、高く買ってくれる職場を求めていたと言い切ってよいと思う。

バッハ・イコール・ルッタ―派への深い帰依、バッハの作品は常に宗教的動機が隠されていると言われ続けてきた。それを証明するかのように、神学者の膨大な論文があり、バッハ学者を喜ばせ、まるで重箱の隅を爪楊枝で突くように、宗教人バッハ像を作り上げていったのだろう。

しかし、ここに俗人としてのバッハがいる。

ライプツィヒ時代に書かれたあの膨大な量の上申書、早く言えば賃上げ、職場改善の要求書はよくぞマー、飽きもせず事細かに書いたものだと呆れ果てるくらいだ。しかも、その愚痴、待遇改善の要求書の量たるや半端でなく、しかも事細かに支給して貰っている薪の量を増やせ、ビール支給量を増やせ、劣悪な環境にあるトマナコアーの寮生のベッド、食事の改善要求などなどの俗事に関わっているのだ。その上、せっせと子造りに励み、総計20人の子供を二人の妻に産ませているのだ。そしてその間、毎週のようにミサ、カンタータを作曲し、合唱隊、オーケストラをトレーニングし、演奏しているのだ。

元々天才という生きものは、いかなる不当な重圧の下でも創作を続けるものなのだろう。ドストエフスキーやモーツァルトは、とんでもない不当な契約に縛られ、まるで馬車馬のように働き、多くの名作を残したではないか…。バッハにも同じことが言えるのではないか。300年以上前に生きた一人の大天才の像を、天才ならざる現代人が捉えられるものではない。ただイメージとして、全人的バッハ像に近づきたい、知りたい思いはある。

ライプツィヒから電車で30分とかからないハーレーの町で、バッハより28日早く生まれたヘンデルは円満な性格だったし、人間の幅が広く、自分の能力を発揮できる環境に順応できた。オペラの本場イタリアで成功を収め、その後、イギリスの国籍を取り、英国国教教会(アングリカン)に乗り換え、かつユダヤ教のハヌック祭典のためにも作曲している。

日本で高校、国体によく演奏される「若き日は再びあらず、歌えよ、いざ、よき友よ…」(『見よ勇者は還りぬ』)は、ユダヤ教の祭典のためにヘンデルが作曲したものだ。この祭典は“ハヌカー”(英語:チャヌッカー)と呼ばれ、紀元前168年から141年にかけて戦われた“マカバイ戦争”に勝利し、エルサレムを取り戻した戦勝記念日用の賛歌だ。ことユダヤ教に関しては、言うこと、なすこと、すべてがドエラク古い。それも建国神話、伝説の類ではなく、歴史的事実に則しているというのだから、呆れ果てるばかりだ。

ヘンデルは当然ながらドイツ語、英語、イタリア語をこなし、フランス語でも会話程度以上できたというから、ザクセンからほとんど出たことがない田舎楽士のバッハとは体験、視野の幅に大きな差があった。

私は、ヘンデルが女性だとばかり思い込んでいた。と言うのは、日本の音楽の授業で、誰が言い出し、教科書に載せたのだろうか、“音楽の父バッハ、音楽の母ヘンデル、神童モーツァルト、楽聖ベートーベン…”云々と暗記させられていたから、白い鬘(かつら)を冠ったヘンデルは”音楽の母“と言うくらいだから、当然女性だと思い込んでいたのだ。

-…つづく

 

*1:孟母三遷(もうぼさんせん)の教え:子供は周囲の影響を受けやすいので、子供の教育には環境を選ぶことが大切であるという教え

 

 

第17回:バッハを聴く資格 その7 ~余談としてのカツラ談義

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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第2回:ライプツィヒという町 その1
第3回:ライプツィヒという町 その2
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第5回:ライプツィヒという町 その4
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第8回:バッハの顔 その2
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