第236回:流行り歌に寄せて
No.46 「逢いたいなァあの人に」~昭和32年(1957年)
昭和の時代に置き忘れてきた、というより置き放しにしてきた言葉というのがいくつかある。今回の歌の中には、そんな言葉が実に多く並んでいるようだ。「紺のモンペ」「一番星探し」「姉さんかぶり」「石ころ小道」…などなど。
「モンペ」は、今やモンスター・ペアレントの略語としての方が有名である。但し、そのモンペそのものの語源を知らない親御さんたちの方が多くなってきている。
このモンペを、私の父の兄嫁さんが農作業の際、よく穿いていた。(ご存じない方のために説明すると)それは袴の一つで、裾を足首のところで絞っており、腰回りの方がゆったりしているため着物の裾を入れることができるようになっている、女性用のズボンである。
その伯母さんは、モンペの他に「たっつけ」というのも穿いていた。それも袴の一種で、ひざから下を細くし、下部を脚絆のように仕立ててあるもの。大相撲の呼び出しが穿いている、あれである。これも畑仕事をする時に穿いているのをよく見かけた。
少し尾籠な話ながら、伯母さんはたっつけ姿の時は、驚くことに小用をたっつけを少しだけ下ろし、男子用の小便器で足していた。囲いのない小便器で、まだ20歳代後半の女性が小用を足している姿を見せられた小学生の私は、間違いなく狼狽えたものである。
もちろん、その伯母さんは手拭いを姉さんかぶりにしていた。
「逢いたいなァあの人に」 石本美由紀:作詞 上原げんと:作曲 島倉千代子:歌
1.
島の日暮れの 段々畑
紺のモンペに 涙がほろり ほろほろり
逢いたいなァ あの人に
子供の昔に 二人して
一番星を エー 探したね
2.
風が泣いてる 夕風夜風
姉さんかぶりに 涙がほろり ほろほろり
逢いたいなァ あの人に
燕は今年も 来たけれど
私は一人 エー 待ちぼうけ
3.
タバコ畑の 石ころ小道
履いた草履に 夜露がほろり ほろほろり
逢いたいなァ あの人に
今夜もこっそり 裏山に
出てみりゃ淋し エー おぼろ月
作詞家の石本美由紀は幼少から喘息を患っていたが、生家が瀬戸内海の島々を見渡せる広島県の大竹市にあったため、それらを眺めながら自分の心を慰めることができたという。
その時に見た島々をイメージして、この『逢いたいなァあの人に』は作られたのだろう。舞台となるタバコの葉を作る段々畑、おそらく最近ではほとんど見かけられなくなった光景に違いない。
故郷の島を離れ、都会へ行ってしまった初恋の男性を思って、ふとついて出てくるため息のような歌。
デビュー3年目で、18歳だった島倉千代子が、実に可憐に、まるで本当の島の娘のように、一つひとつの言葉を丁寧にこの歌を歌っている。
ちょっと甘えて拗ねたような声色と、独特の泣いているようなビブラートの、いわゆる「お千代節」は、デビュー以来からのもので、この歌でも健在である。
そして、この年の大晦日、彼女はこの歌を歌ってNHK紅白歌合戦の初出場を果たした。
その後、35回紅白出場の記録(平成11年の、第50回大会に北島三郎に抜かれるまで、歴代第1位)を作っているが、同曲は初回のこの昭和32年を含め、昭和51年、昭和54年と3回披露しているのである。
因みに、同学年ではあるが、年齢は1歳上のため「生涯の姉」として慕い続ける美空ひばりは、昭和29年に初出場、2回目がこの昭和32年。それ以来、昭和47年までの16年間、二人は大晦日の競演を続けていった。
この間、昭和35、36、37年の3回に限り、トリは島倉が務めたが、あとの13回は美空のものだった。男女合わせてのトリ、いわゆるその年の最後に歌うことのできる大トリは、美空が10回なのに対し、島倉は0回。
島倉は、美空が出場しなくなった昭和48年から3回続けてトリを取ることができたが、その最後の年、昭和50年、生涯最初(で、おそらく最後)の大トリを『悲しみの宿』という曲で務めることができた。
私はこの時のことを覚えているが、本当に彼女は感無量だったのだろう。最初の語りの部分の台詞が「お千代節」ではなく、地の声として小刻みに震えていた。
-…つづく
第237回:流行り歌に寄せて
No.47 「港町十三番地」~昭和32年(1957年)
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