サラセンとキリスト教徒軍騎士たちが入り乱れ
絶世の美女、麗しのアンジェリーカを巡って繰り広げる
イタリアルネサンス文学を代表する大冒険ロマンを
ギュスターヴ・ドレの絵と共に楽しむ
谷口 江里也 文
ルドヴィコ・アリオスト 原作
ギュスターヴ・ドレ 絵
第 5 歌 邪悪な公爵
第 1 話: 悲鳴の主
第4歌は、剛勇リナルドが女の悲鳴を聞きつけたところまででありました。さて、そのリナルドが駆けつけた時、二人の男が慌てて逃げ去るのが見え、悲鳴の主と思われる女は、ほとんど気を失って、岩の上に倒れかかっておりました。第5歌は、その女の話から始めることにいたしましょう。
人間というものは、男も女も、なんと愚かな生き物か。騙し騙され、はたまた信じ過ぎたり疑い過ぎたり、どちらにしても人間の男と女が紡ぐ物語ほどややこしく、何が真実で何が嘘かが分からないものはない。
熊にせよライオンにせよ鳥にせよ、自然界の動物たちの雌雄の愛情のありようは、それに比べればずっと誠実。とまあ、ついそんなことを思わずにはいられないほど奇妙なことが、人間の男と女の間ではしばしば起きる。
とはいうものの、勘違いや思い入れや行き違いがあってこその人の恋。それがあってこその騎士の働き。
さてリナルドが駆け寄ると、悪漢はすでに逃げ去り、悲鳴の主は、まだうら若き乙女。聞けば乙女はなんと、今やその命が風前の灯のギネヴィア姫のお付きの侍女。その侍女が涙ながらに語った話をいたしましょう。
王国には、王に匹敵するほどの広大なアルバニアの領地を持つ公爵がおりました。その名も公爵ポリネッソ。ところがこの公爵、王位を奪い取るという野望を胸に秘めて、実に手の込んだ罠を仕込んだのだった。
王の存在を無にするためには、事を荒立てることなく皇女を葬るのが一番と考えたポリネッソは、まず侍女ダリンダに目をつけた。ダリンダは美しく、そして背格好がギネヴィア姫によく似ていたからだった。
ポリネッソは、王宮でギネヴィア姫に謁見するたびにダリンダにさりげなく流し目を送った。自らの美しさにそこそこ自信もあったダリンダは、公爵が自分に気があるのだと思い込み、やがて逢瀬を重ねるようになっていった。
密会の場所はなんとギネヴィア姫の寝室。そこに目をつけたところが陰湿で巧妙なポリネッソならではの悪知恵。それは王宮の内部をよく知る公爵だからこそ思いついた策略。
もちろん、国中に顔が知られた公爵が、王女の次女と密かに愛を交わす場所などあるはずもない。そこでギネヴィア姫が週末には決まって両親である国王と王妃とともに離宮で暮らすことを知っていたポリネッソは、その隙に侍女ダリンダと姫の寝室でしっぽりと睦み合うことにしたのだった。
こうして週末の夜になると、ダリンダは王女のいない部屋のテラスからこっそり縄梯子を降ろしてポリネッソを部屋に迎い入れた。ダリンダも最初は、次女でしかない自分を、広大な領地を持つ名家のハンサムな公爵が情熱的に愛してくれることに一抹の不安を覚えはしましたが、しかし逢瀬を重ねるうちに、もしかしたら本当に公爵が自分を愛してくれているのだと思うようになり、やがて公爵が結婚話を持ち出し、そのうち来春には盛大な式を挙げようとまで囁かれるに至って、すっかり有頂天になり、公爵との愛を信じ、この人のためなら命さえ惜しくはないとまで思うようになってしまったのだった。
密会が続き、すっかり打ち解けた仲になれたと思えるようになったある晩、ポリネッソがダリンダに、君だから話すことだけれど、実は私はそのうち国王になろうと思っているんだ、そのためには君の協力が必要なんだと打ち明けた。それはなんと、ギネヴィア姫を不義の罪に陥れようという話だった。一人娘のギネヴィア姫がいなくなれば、王は悲嘆し気力をなくし、信頼する私に、この国で最も由緒正しい公爵である私に王位を移譲するだろう。そうなれば君は王妃。
とんでもない話ではあったけれども、その頃にはダリンダはもうポリネッソに夢中で、公爵と結ばれることしか考えられなくなっていた。ところが公爵は侍女ダリンダに甘い言葉を囁く一方で、王になるためのもう一つの手段に血道をあげていた。それはギネヴィア姫に言い寄って恋仲になって結婚し、正式に王位を継ぐことだった。公爵と王女との結婚となれば、この国の二つの名家の婚礼であり、そうなれば当然、王位が自然に公爵の手に入るという算段だった。
しかしこの作戦は、公爵がどんなに姫に言い寄っても、どんなプレゼントをあげても全く進展する気配すらなかった。ギネヴィア姫がポリネッソ公爵を嫌っていたからだが、それより何よりギネヴィア姫にはすでに思い定めた憧れの騎士がいた。その騎士の名はアリオダンテ。イタリアの名家の子息で、弟のルルカニオとともに遍歴修行のためにこの国に来ていたのだったが、二人はすぐに人気者になり、王の御前槍試合や剣の腕くらべでは勝ち残るのはいつもこの二人。そうして最後に戦ってもなかなか勝負はつかず、王が引き分けの裁定をして終わったことが二度三度。そんなわけでこのイタリア人の騎士兄弟は王家のお気に入りとなり、ギネヴィア姫も兄のアリオダンテに心惹かれるようになり、やがて互いに、相手への愛を強く抱くようになっていた。
王も二人の仲を好ましく思い、二人を結婚させようと考えるようにもなったのだった。ポリネッソ公爵が侍女ダリンダに色目を使い始めたのはギネヴィア姫の攻略がどうも不可能なのではないかとわかったからだった。そこで公爵はアリオダンテに、姫の心は自分にある、毎週のように姫とは情を交わし合う仲、嘘だと思うなら土曜日の夜にギネヴィア姫の部屋のテラスが見える路地で見ているがいい、そうすれば私たちが愛し合っていることがわかるだろうと言ったのだった。
さて、この話の続きは第5歌、第2話にて。
-…つづく