第465回:先輩たちの感謝パーティー
私の専門は言語学という言葉の科学のような学問です。ところが十数年前、日本ファンのようなグループ、残念ながら日本のアニメファンがほとんどでしたが、彼らに頼まれるまま授業としてではなく、日本語クラブ的な集いで日本語を教え始め、それが正規の授業になり、いまでは他の言語を教える先生から羨ましがられる程人気講座になってしまいました。
元々、私の日本語の能力はとても限られたものですが、そこはすぐ傍に元日本人らしきダンナさんが控えていますから、近くにあるものは何でも使えとばかり、大いに利用させてもらって授業を何とか成り立たせているのです。
今では、日本語I, II, IIIまでのクラスに発展してしまいました。私の日本語クラスが他のクラスと違うところは、日本語 I の授業に、すでに I や II 、III コースを終えた生徒さんがアシスタントのように何人も出てきてくれることです。そして初めて日本語を習う I の生徒さんにひらがなの書き方、簡単な漢字の書き順などを手ほどきしてくれるのです。この頃では試験の採点まで任せるまでになっています。そんなアシスタントのことを"先輩"と呼ばせています。
日頃、頼りない先生を盛大にサポートしてくれていますから、先輩たち、その上の大先輩、大大先輩を私たちの山小屋に呼んで、感謝パーティーを開きました。総勢13人になり、会話は初めは日本語のみ、そのうち酔っ払ってきて日米混合、最後には変な冗談だけ日本語、あとは英語のパーティーになりました。
それにしても、彼らの若さ、エネルギーには圧倒されっぱなしでした。私たちの家は、アメリカのスタンダードでいくと家というよりバンガロー、小屋なので、とてもそんな人数を家の中に収容できまんから、比較的平らな野外の木下に、ダンナさんが建設用のベニア板2枚、台の上にのせネジで留め、速成の大デーブルを作ってくれ、そこが会場になりました。バーベキューは、これもダンナさん自作でドラム缶を半分に切った、とてつもなく大きなもので、お腹の空いた若い人たち13人分のあばら肉を一度に焼けるほどです。
ちょうど期末試験が終わり、皆とてもリラックスしていたこともあるでしょうけど、それはそれは賑やかで、笑い声、会話が途絶えることはありませんでした。それどころか、逆にあれだけ皆が同時に喋り捲っていて、よく意思の疎通ができるものだと、ホトホト感心させられました。彼らの笑い声は裏の岩山に響き渡り、コダマしたことです。"針が落ちてもおかしい年頃"という表現があるそうですが、彼らはまったくそのとおりで、何を言っても、何が起こっても大笑いの連続なのです。
先輩たちは午後の3時半に集まり始め、私は8時頃には皆引き上げるだろう…と期待していたのですが、なんと夜の11時過ぎまで賑やかに続き、彼らの中の3人が夜12時からアルバイトがあるので帰らなければならず、放っておいたら朝まででも続きそうなパーティーに終止符を打つことができたのです。
そういえば、集まった生徒さんたち、程度の差こそあれ全員アルバイトをしていました。まったく自立している人、学費の半分は親が出してくれている人それぞれですが、独立しようという気構えは十分に持っている生徒さんばかりでしたが、これは勉強を一生懸命にする、いわば勉強のできる生徒さんばかりの先輩グループですから、アメリカの学生全体にはとても当てはまらないでしょうね。そして一般的に、すべて親に頼っている学生より、アルバイトで苦学(古そうな言葉ですね)している生徒さんの方が、優秀だという傾向がはっきりと出ています。
それと後で気が付いたことですが、先輩として私の授業を助けてくれると同時に自分の日本語にもっと磨きをかけようという生徒さん、先輩パーティーに来た生徒さんに、日本のアニメクラブの生徒さんが一人もいないことです。
彼らは、ビジネス、看護婦、コンピュータサイエンス、社会学、美術、機械工学を専攻する学生です。専攻がなんであれ、皆ともかくとても日本が好きで、日本のことならなんでも知ろうとしているのです。逆にアニメ、マンガクラブの学生さんは、アニメの世界が日本だと思い込み、他の日本を知ろうとしないのでしょう。
私の日本語クラスからすでに10人以上が、日本に留学やワークホリデイに行っています。
こんなパーティーはウチのダンナさんの助けなしにはとてもできません。この日ばかりは浮世離れしたウチの仙人に大感謝です。「賑やかで元気溌剌とした孫が一挙に押し掛けてきたようなもんだな~~」、そして、「それにしても外で薪切り、薪割りを4時間やったときより疲れるな~~、オマエよくあんな子供を相手に長い間授業を続けてきたな」と、ほんの少しは私の苦労を分ってくれたような口ぶりでした。
第466回:お墓参りとお墓の話
|