第53回:再びラスベガスへ
更新日2003/03/20
7年ぶりの帰国から、半年ほどシスコのGUNショップで働いた私は、山下社長に退職届を提出した。永住権を取得した今、自分の進む道を極めるために、独立を申し出たのだ。
永住権を取得したら、すぐに仕事を辞めてしまう人が多いのが現実だったが、私はそれはしたくなかった。しかし、会社の過去3年間の客入りは伸び悩んでいて、もう会社が私を必要としているとは感じられなかった。会社の落日を目の辺りにしながらリストラされるより、これから米国での第二の挑戦を試みたかったのだ。
最初戸惑っていた社長からも承諾を得た。
「今までお世話になりました!」
8年前、一人でシスコを放浪している私を拾い、育ててくれた彼には感謝の気持ちで一杯だった。
90年代も後半になると、私の住むサンフランシスコに比べて、ラスベガスへの観光客の増加は目覚しく、進化するカジノ産業と付随したエンターテイメントなどのサービス産業は、他の都市の追従を許さない勢いだった。

また、私にとってベガスのあるネバダ州は、軍用ライフル、マシンガンなどの所持も未だに可能であり、94年以降GUNの規制の始まったカリフォルニア州に比べて、本当の射撃の楽しさを味わうことができるのは大きな魅力だった。ベガスで今まで人がやったことのないGUNツアーをするのが自分の進むべき道と確信したのだ。
当時、インターネットが一般家庭に爆発的な普及をみせており、このこともさらに何かのチャンスのようにも思えた。結婚したばかりの私は、妻をシスコに置いてベガスへ出発することにした。
妻は、仕事が落ち着けば何時でも呼び寄せることもできると考えていた。実際、当時はベガスの日本人ガイドの働き手が少なく、私のように“出稼ぎ”感覚で全米各地からベガスに乗り込んできた人たちも数多かった。
出発当日、引越し用の2トントラックに荷物が山積みになっていた。初めてシスコにきた時はリュック一つだったのが、気が付けばこれだけ家財道具が増えていた。
通常、米国では、引越しセンターなどのサービスは受けず、自分でトラックを借りて引越しするケースがほとんどで、これは、土地に執着する農耕民族と違って、頻繁に住居を移動することを厭わない国の特色かも知れない。
私は、今回のベガス遠征が失敗してもシスコに戻る気はなかった。昔、一人で日本を出たときと同じ気持ちだった。また、『南無八幡大菩薩』を書いた色紙が私のポケットに入っている…。今回は、運を天に任せるつもりはないが、米国で初めて商売を始めることは、雲を掴むような状況であることには変わりがなかった。
妻、友人たちに見送られてトラックを発進させた。見慣れたオーシャン・ビーチ、ノスタルジックな町並みと急坂やケーブルカーとも今日でお別れだ。美しいベイブリッジを渡るのも今日で最後だ。ダウンタウンの摩天楼もバックミラー越しにやがて小さくなっていった。
「さらば、サンフランシスコ!」
と一言、トラックの窓を開けて手を振った。
米国は、どこでも都市部を離れ内陸部に入ると、まだ牧草地が多く、まさにカントリーである。ラスベガスまでは、トラックで約10時間、1,000Kmの道のりだった。
シェラネバダ山脈の峠を越えてモハベに入ると、荒涼とした大砂漠が目の前に広がった。私は昔、アリゾナからヒッチハイクして、ビル爺さんとベガスまで走ったことを思い出していた。
丸一日砂漠を走り、夜になると遠くにラスベガスの懐かしいネオンが見えてきた。ギャンブラー生活をやっていた昔に比べて、さらにホテルが増えていた。すべてを飲み込んでしまうこの砂漠のなかの不夜城は、格段にパワーアップしていた。今や、米国人でも住みたい街ナンバー1のブームタウンなのだ。
その日はストリップ地区近くの知人の空きアパートに入った。2LDKの大きな部屋に家賃もシスコの半分くらいで、考えられないことに、駐車場、プールやジムを完備していて、それがベガスでは平均的なアパートであることに驚かされた。明日からやることが山ほどある。希望を胸に長距離移動で疲れた体を休めた。
翌日、仕事のオフィスを借りるために早速行動を起こした。ベガスのあるネバダ州は、会社の設立が簡単であることを知っていたので、この際、融資を受けやすい自分名義の株式会社を設立することにしたのだ。そのためにはオフィスを借りることが不可欠であった。
空港近くの立地条件もよい場所に事務所を見つけ、すぐに電話を引いてビジネスの拠点を作った。米国の場合、電話を引くのが容易で、ソシアルセキュリティナンバーさえあれば、50ドルくらいの手数料ですぐに申請できるのだ。
次は、ビジネスライセンス・オフィスに行き、会社設立のための書類を作成した。ベガスは、90年代後半、土地の高騰などで住みにくくなったカリフォルニア州を離脱した米国人たちも多く、役所に行ってもギスギスとした雰囲気もなく、まるで役所の皆が砂漠の新天地への進出を心から応援してくれるかのごとく親切だった。
銀行で会社名義の口座も開き、警察所でGUNの書類を受け取り、たった数丁だが、貸し出し用銃器の申請も終えた。そして、砂漠の中にある屋外射撃場の使用手配も完了し、送迎用の中古のバンも購入した。
いよいよ米国で初めて自分の会社の営業が始まったのだ。もう後戻りはできない。
第54回:ベガスの生活