第142回:イビサの“カルーソー”のこと
イビサの市庁舎に、“一応”という形で文化部がある。それに掛かり切りの専門の職員などは置かず、市役所職員、市のお巡りさん、消防士などの中からゲージュツ意識のある者が“サーテ、次は何をしようか? どんな展示会、コンサートをやろうか?”といった調子で決めるのだろうか、オフシーズンに入った11月から年末にかけて何らかの行事を行う。
決まり切ったカトリック関係のパレードや行事は教会が司る。それに加えて、ヒッピーマーケットとは180度異なる“トキノ市”の屋台が並び、キリスト生誕の人形などが街角に飾られる。これらは、市役所の管轄なのだ。
エンリコ・カルーソー(Enrico Caruso) <Amazonより引用>
冬場には、文化行事なるものが行われる。アパートの隣人ギュンターが指導している演劇が上演されるのもこの時期だ。野外の特設舞台で、ドイツ人のオッサンが指揮するアコーディオンバンドが演奏し、私たちが“スカート”と呼んでいるモンハ(monja;尼僧)が運営する小学校の生徒たち(この少女たちがチェックのスカートを制服にしている)のコーラスがあり、そして最後に、イビサの“カルーソー”*1が登場する。
イビサの“カルーソー”はチビで痩せっぽちの市警で、彼がお巡りさんの制服を着ている様子はまるで制服が歩いている、制服に着られている図そのままだった。顔、頭も小さいから制帽も異常に大きく見える。彼がコネでイビサ市に採用されたのは明らかで、彼のオヤジさんが市役所の重鎮だったからだ。
イビサ旧市街、Calle Mayor(カジェ・マジョール)
オヤジさんの方は小柄ながらでっぷりとした身体つき、やることなすこと重々しく、生涯走ったことなど一度もない風情で動く。繁華街のカジェ・マジョール通りの中心部に住み、そこで奥さんにタバコ屋をやらせていた。
イビサの街中を散策していて、ピアノの音が聞こえてくることはまずないのだが、昼間、カジェ・マジョール通りのタバコ屋からはいつも…と言っていいと思うのだが、ジンジン響くピアノの音が、メロディーと言えないところが辛いのだが、聴こえてくるのだ。
曲はスペイン、ラテンのクラシックらしいのだが、流れるような、人をうっとりとさせる類いのものではなく、リズムがいつもフラメンコ調に聞こえてしまうのは、私の耳の偏見かもしれない。それにしても、私が聴いてさえ、ピアノの音が相当狂っていて、長い間調律をしていないことが明らかだった。
毎日ではないが、良く響くテナーが聞こえてくることもあった。息子のお巡りさんが、父親さんの伴奏で唄っているのだ。
野外の特設ステージの音響は至ってよろしくない。マイクロフォンも時代物なら、スピーカー、アンプも出力不足なのを、ボリュームを精一杯上げることで補おうとしているから、20名からのアコーディオンバンドやコーラスの時はまだ良いが、“カルーソー”の独唱となると、音が割れ、酷いことになる。
一体、あの細い身体のどこからあのような声が出てくるのだろうか、中音では幅のある深く、しかも良く通る声なのだが、感情が篭った、あるいは篭め過ぎた高音になると、絶叫に近くなり、本人が顔を真っ赤に染め激唱すればするほど聞き苦しくなってしまうのだ。
それでも、初めて聴いた時には、イビサにもこんな趣味人がいたのかと感心したものだ。そして、次の年、また更に次の年と、唄う歌は同じで、スペインのクリスマス・ソングを数曲、そして、おそらく“カルーソー”先生のオハコ、イタリア民謡『帰れソレントへ(Torna a Surriento)』をイタリア語で唄い、締めるのだった。イビサの“カルーソー”と名付けたのはギュンターだった。
Musical Oliver!<Amazonより引用>
サンタ・エウラリアでミュージカル『オリバー!(Oliver !)』が公演されたことがある。ハイアットさんの肝煎りとコネでイギリスから呼んだグループが、至極簡素化した舞台で演じたのだ。会場は市の会議室のようなところで、せいぜい300人も入るかどうかという狭い会場だった。
私はミュージカルのファンでもなく、映画で『サウンド・オブ・ミュージック』を観ただけだ。それも、かなり退屈しながら付き合いで観に行っただけの体験しかない。この『オリバー!』がロンドンのどの程度のプロダクション・グループか知らないが、狭い会場を圧倒する声量で歌い、話し、笑わせ、かつ緊迫した舞台からの熱気が聴衆を魅了したのだった。これがプロの仕事だと思わせた。
会場に詰め掛けた人は圧倒的にイギリス人が多かった。ハイアットさん家族の姿も見かけた。お巡りさんの制服を脱ぎ、私服のイビサの“カルーソー”先生も来ていた。彼とは簡単な挨拶を交わす程度の知り合いだったから、会場から出る時、「どうだった? 存分に楽しんだ?」と言葉をかけた。彼は素直に、「すばらしかった…」と感動覚めやらぬ面持ちで言うのだった。
ペペとカルメンと連れ立って、一緒に観に行ったギュンターも、「ウーン、悪くないな…それどころか結構やるな~」と褒め、「ここで、締めにイビサの“カルーソー”が登場したら、ぶち壊しになるところだな…」と言わずもがなのことを付け加えたのだった。
*1:エンリコ・カルーソー(Enrico Caruso);イタリアオペラの有名なテノール歌手、1873-1921年。
-…つづく
第143回:スペイン的時間の観念と“コネ”社会
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